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2009年5月の18件の記事

2009年5月31日 (日)

大きな病院が悪いわけではない(交通事故顛末)

長年こんな仕事をしていると、自然と最終的には結果をはっきりさせたい性分になるのは避けられない。
したがって、最終的には医者に確認をしてもらいたい。
親切な「おばた治療室」の先生も医者には確認のために診てもらえと言っていた。

幸い、実は腰には既往があって、7年前にレントゲンを撮ってもらった医院がある。
一昨日、そこの医院で診てもらった。

「5月18日に追突事故に合った」と説明したら、真っ先に「頚は?」と聞かれた。
頚は最初から何も症状がない。

「(せっかく)事故があったから、7年前と変化しているかどうか診てみたい」と受診動機を告げた。

触診、叩診後、レントゲンを4枚。

先生の結論は
「以前と変化はありません。」

おー、加齢変化すらないとは、幸いである。

先生は
「背筋が脊椎がすべるのを支えているので、背筋を心して鍛えていくように。」
「足首の返りに異常が出たり、痛みが出るようなら来てください。」

ということで、今後の心がけもきちんと説明してくださった。

小幡駅ビルのアクロス小幡に構えている医院だから、スタッフは大勢いるし、医療器具もたくさんある。
ドクターは一人だが、一見、大きい病院といえば大きい。
しかし、患者は多いが、待たされる時間も短く、機能的で、医者は質問にも適格に答えてくれたし、受付も親切な印象である。
変に、「リハビリに通え」などと過剰診療の勧めもなかった。
好印象である。

結局、こうした商売はサービスの根っこに「親切の心」があるか、「客の身に立って考えようとしているかどうか」が、基本的な論点で、規模が大きいかどうかは、さほどの問題ではないというのが、タウン誌広告経験から発した体験の一応の総括ということになろう。

今後は、弁護士広告が一般化している背景なんぞを多少、ご紹介する機会もあろう。

現段階の僕の思いでは、広告では、その事務所の良否は、識別不能ということになる。
一般の商品と同じと言えば、同じだ。

身近な存在である医者等と違い、弁護士は一生に一度の買い物であることがほとんどだから、そこが厄介である。

継続的に不測の事態に立ち向かう関係になるから相性という問題もある。

どうしたら良い弁護士を見分けることができるのか。
永遠のテーマかもしれない。

追伸
今週には、全治3週間近くかかった愛車が戻る予定である。
愛車が戻れば、交通事故は僕の側は、一件落着して、いろいろお釣りが出たということになる。
(*^_^*)

2009年5月30日 (土)

交通事故の話の続きの続き

僕は、追突された直後、停車しない割り込み車を追いかけた。夢中であった。

後で考えれば、追突してきた車は放ったまま、先を急いだ訳である。

これを追突車から見れば、こうなった。
えっ~、どうして被害者が逃げていくの??!!

追突車の運転手は、ガタガタで動かなくなった車をかろうじて路肩に止めて車を降りるや、駆け足で僕の車を追いかけてくれた。

加害者が被害者を追いかけるという珍妙な事態の出現である。

ちょうど僕が、
「僕も10時の裁判をキャンセルにしたのだから、おあいこだから、警察を待とう」
と割り込み車の運転者を説得している最中に、追突車の運転手が合流した。

加害者は、被害者が見つかって、ホッとしたという。
加害者は、仕切りに「お体は大丈夫ですか」と気遣ってくれる。

ゴールド免許に傷が付くの、苦労して取った資格がどうのと訳のわからないことを主張する割り込み車の運転手に手こずっていた僕は、加害者のすまなそうな仕草や、僕を気遣う優しい言葉にほろっとする。
腰の違和感が怪我と呼ぶほどでもなく終わったのも、その優しい言葉のせいかもしれない。

という訳で、追突した加害者と追突された被害者は、すっかり意気投合した。
煙草を吸わないと、待つということができない僕に、駆けつけてくれたご主人が、灰皿を差し出してくれたりして、和気藹々であった。

と言うわけで、全くめでたく、僕の交通事故被害体験は被害者側の過失0で円満に解決したのである。

何でも、加害者の知人が正義感の強い弁護士を探しているということで、先日、相談者を紹介してくれた。

「加害者」側の紹介で訪れた相談者も僕のことを気に入ってくれたそうだ。

交通事故が取り持つ縁である。

縁は異なもの、ありがたいものである。

【追伸】
 僕が取った行動は、確かに正義感から出たものらしい。しかし、考えてみれば、果てしなく間抜けでもある。

 もし加害者が悪い人で、被害者が逃げたことをいいことに、その場から去ってしまっていたら、僕は、最も重要な加害者を取り逃がしたことになる。

 どう考えても、あまりにも間抜けである。

 警察が来たとき、どう説明すれば、わかってもらえるのか、保険会社に何と言って顔向けができるのか、およそ想像ができない。

 正義とは、あるいは間が抜けたものをいうのかもしれぬ。
 情と出会うことで初めて、正義は実を持つのかもしれぬ。
 かくのごとく世の中は、不可思議に満ちている。

【どうでもいい補足】

そういえば、この日記の書き手は弁護士であった。法律論を少しだけ。

 追突車がとりあえず、被害者に対して100%の賠償をした後、割り込み車との関係はどうなるかというと、追突車と割り込み車との間で、過失割合を決めて、加害者双方の内部で清算することになる。

被害者は、共同不法行為の加害者に対して、どちらに対しても全額の賠償請求権を有する。被害者の救済を優先するためである。後は、加害者の内部で責任に応じて清算するという理屈である。

2009年5月29日 (金)

交通事故の話の続き

昨日の日記に書いた交通事故。態様を改めて復習すると以下の通り。

僕が、片側三車線の中央車線を車の流れにしたがって通行中、交差点の近くで、突然、左折車線の車が中央車線に割り込んできて、とっさに急ブレーキをかけて、接触を避けたところへ後ろから、ガーである。

この交通事故の過失割合は10対0で、全面的に補償してもらえることになった。僕の過失割合は0である。

信号待ち停車中に追突された場合を除けば、被害者の過失割合が0ということは極めて珍しい。しかし、僕の過失が0であることついて、加害者側の保険会社も含めて、誰からも異議がなかった。

ま、控えめにいえば、僕が弁護士だったから贔屓されたということになりそうであるが、それだけではないと僕は思っている。そうなるにはそうなるなりの経過があった。

衝撃を受けた直後のことだ。僕は、割り込んだ車は当然、路肩に寄せて止まってくれるものと思っていた。

ところが、減速することもなく、どんどん、どんどん進んで行くではないか。

僕はクラクションを鳴らしながら、追跡。

さいわい赤信号になって停車したので、車から降りて近寄り、運転者に窓越しに、路肩に止めるように誘導。まずは、住所・氏名を確認。

「事故届けをする」と告げると、ゴールド免許に傷が付くのがいやだとか、苦労して取った資格があるとか、訳のわからないことをおっしゃる。

僕は、公式な事故処理をしないでこじれた紛争を職業柄、よく見てきた。

「警察が来るまで待とう」と言うと、これから見舞いに病院に行き、その後に大学で講義の予定があるからと言って、早く立ち去りたいご様子。

「僕も10時の裁判はキャンセルにしたのだから、おあいこだ、待とう」

と説得。

さらには、待っている間に駐車違反になると困るというので(彼の車だけは無傷である)、近隣の公営駐車場の守衛さんに掛け合って、警察の調査が終わるまで車を無料で置かせてもらうようにし、ようやく彼が立ち去る口実を封じ込めて、警察を待つ体制になった。

何かと世話が焼ける割り込み車ではあった。

割り込み車の運転者を現場で確保してあった結果、警察も事故直後の現場で三者それぞれから事情聴取することができ、一度に事故の全体像が明らかになった。後日、ばらばらに聞かれようものなら、事故の実体はいたずらに複雑化し、真相は容易に明らかにならなかっただろう。

もし、割り込み車を僕が追っかけ、現場で警察を待つように説得しなければ、僕の供述は、

「いや、とにかく割り込み車があったので、急ブレーキをかけた」

としか言いようがなく、

「そんな車どこにいた」

と言われても後の祭りであった。そんな曖昧な供述では、過失0などということはあり得なかったろう。

別に自分の利益を考えた訳では毛頭ない。

自分の割り込みで、かなりの事故が起きたことがわかりながら、知らぬ振りで逃げ出すのが許せなかっただけだ。その結果が過失割合0である。意図せず自分の利益にもなった。

この話には、まだ後日談がある。

2009年5月28日 (木)

町医者がいい。

大病院より親切な町医者がいいなぞと呑気なことを書いていたら、とたんに交通事故に合って、「親切な町医者がいい」体験をした。

追突事故だ。僕は追突された方である。追突した加害車両は前部を大破、自走できなくなり、レッカー車が必要になった。当方は、後部トランクが大破。
原因は、僕が、片側三車線の中央車線を車の流れにしたがって通行中、交差点の近くで、突然、左折車線の車が中央車線に割り込んできて、とっさに急ブレーキをかけて、接触を避けたところへ後ろから、ガーである。

で、三者間事故のため警察の事故調査や聴取も2時間に及んだ。
午前10時の裁判は延期してもらった。
最初は、興奮していたせいか、何も感じなかったが、加害者の方から仕切りに「お体大丈夫ですか」と声をかけられる内に、そう言われれば、腰の辺りに違和感があるような気がしてきた。昼過ぎになって事務所に戻ると、はっきり腰に違和感があるのがわかる。
当座の凌ぎとして冬の間、いつも腰の血行をよくするために張っていたカイロを、張ってみる。

職業柄、こういう事故は、2、3日あるいはそれ以上たってから症状が現れることが多いことを知っている。、
で、職業柄、たとえば、「厄介なのは脊髄液減少症だ」などという余分なことまで熟知している。
しかも、職業柄、この程度でレントゲンに異常が出ないことも知っている。したがって、病院へ行っても、きっと待たされて、検査されて、異常なしで、痛み止めの薬を念のため投与されるということも知っている。頸部挫傷で苦しんでいる患者さんは大抵がこのパターンだ。
さてどうしたものか。

事務所のお隣の部屋が鍼灸・アロマ・自力整体と体にいいことを広く手がけておられる「おばた治療室」である。そこの先生は親切なことを知っている。
無理を言って、急患扱いで、診てもらった。
素人療法のカイロを真っ先にはがされた。追突事故の衝撃は、ストレッチもせずに全力で100m走って炎症が出たのと同じだから、暖めるのはもっての外と諭された。
多少の触診の後、ご託宣が出た。

「明日の朝は、もっと痛んで当たり前でしょう。その痛みとあさっての朝の痛みを比べてひどくなるようだったら、医者へ行って診てもらいなさい。収まっていくようなら自然に直るでしょう」

腰がゆがんでいたら、直してほしかったけれど、先生は、

「変に整体などしない方がいい、今後に起きる変化が私が体を触った結果か、事故の結果かわからなくなるから。炎症は冷やすべきだけど、これも事故自体の影響がわからなくなるから、そのままにしておきなさい」

僕はさらに食い下がる。

「ストレッチはだめ?」
「せめて、仰向けに寝て膝を抱えてごろごろと楽に腰をゆするのはだめ?」

先生の見解は、明快である。

「ストレッチはしない方がいい。理由はさっきと同じ。腰をゆするのが楽ならば、それくらいはいいでしょう」

大体想定の範囲であった。しかし、やっぱり専門家に言ってもらうと素人はとても安心である。専門家のありがたさが身に沁みる。

「先生、お代は?」
「こんな程度なら、いいわ」
「それじゃぁ儲からんでしょう」
「そうね」

で、その日の夜は、腰のあたりが、ひりひりした感じがしたが、起きあがれなくなるかもと、覚悟していた翌朝は、事故当日に比べれば、却ってマシになった。二日後には、右腰辺りに多少の違和感を残す程度になった。

事故から5日目、週末には、いつもの緑地をジョグしてみた。多少ゆっくりめに、距離を6㎞くらいに減らして。
今日は、10日目である。何ともない。
実際、それなりに大変な事故だったのだ。車がつぶれてくれたおかげで(車の方は全治2週間の重傷である)、僕は助かった。今時の車は、軽自動車でなければ、人間を守ってくれる。感謝である。

なお、わがままな患者は、週末にジョグしてもよいかと、どうでもよいことで再診をお願いし、ようやく受診料を受け取ってもらえた。患者はお礼に、余ってしまっていたCD「中島みゆき的アジアン・カヴァー」をお裾分けした。

2009年5月27日 (水)

弁護士も広告の時代

最近は、弁護士の広告を見かける機会が増えた。ご多分にもれず僕の事務所にも広告代理店からのセールスの電話がしばしば入る。先日は、タウン誌へ広告を掲載しませんかというのがあった。
僕のような零細なマチベンの良さをしってもらおうといろいろ頭をひねった。大事務所に対して優位性はないのか。地域密着17年が当事務所のキャッチフレーズである。
大病院へ行ったときと、町医者に行ったときの実感を比べてみることにした。
広告であるからには説得力とインパクトが必要である。

複数の原稿を広告代理店様に提示した。採用された「原案」は以下のとおりである。

大きな病院へ行って、散々待たされ、たくさん検査をされた挙げ句、ようやく医者に会えたと思ったら、医者との面会は1分だけ。ただ「異常ありません」等と言われて、忙しそうな医者に聞きたいことも聞けずに終わったことはありませんか。重体で専門医の治療が必要なとき以外は、親切な町医者の方がよほど頼りになると思いませんか。
私は町医者のような弁護士を心がけています。市民の法律問題の大半は難病ではありません。大げさな検査器具やおおぜいのスタッフも必要ありません。聞きたいことが聞ける、そんな関係が大事だと思っています。お客様との信頼関係や共感が何より大事だと思っています(完全予約制)

僕は以下の原稿の方が気に入っていたが、なぜか没になった。

大きな病院へ行って、散々待たされ、ぎょーさん検査されたがね。ようやく医者に会えたと思ったら、医者との面会は1分!ただ「異常ありません」先生はせっかちだで聞きたゃーことも聞けなんだがや。重体で専門医の治療が必要なとき以外は、親切な町医者の方がよっぽど頼りになるでにゃーか。
うちは町医者のような弁護士を心がけとるでよー。市民の法律問題の大半は難病ではにゃーでね。大げさな検査器具やぎょーさんのスタッフなんか要らん。聞きたゃーことが聞ける、そんな関係が大事でにゃーか。お客様との信頼関係が何よりだゃーじだと思っとるでよ、気楽に来てちょ。予約制だでよ、電話を先にちょーよ。

「がや」を丁寧語の「なも」にしておけば、採用されたかしらん?
とも思うが、市長さんが名古屋弁丸出しになっても、弁護士広告ではなかなか許されないようである。そう言えば、市長さんも最新の名古屋市広報のご挨拶では名古屋弁は控えめにされていたような記憶だ。

郷土史を中心とした小規模出版にこだわり続けている、僕が敬愛する友人のブックショップマイタウンさんは、名古屋弁を極めるべく、「名古屋弁の構造」なる深遠なる名古屋弁の研究書を出版されている。

名古屋人よ、もっと名古屋弁に誇りを持とみゃー「なも」。

2009年5月25日 (月)

良心的裁判員拒否者について 各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その6

NHKは5月14日、午後4時頃配信のニュースで、裁判員候補者168人に対してなしたアンケート結果(回答者121人)によれば、「絶対参加したくない」とする人が16%いると伝えた。
一般的な世論調査ではなく、最高裁から具体的に候補者に選ばれ、「呼び出しがあれば、国民の義務として応じなさい」とのお達しを受けた上で、なお、16%の人が「絶対参加したくない」としている各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その2)。

自分が裁判員をやりたいかどうかを考えることも司法のあり方を考える上では大切だ。
しかし、それだけでなく現実に裁判員の指名を受けても、人を裁くことには「絶対に参加したくない」とする人がいるのだということについて考えることも大切だ。この問題は人権の本質に関係しているからだ。憲法が人権を保障しているのは、多数決でも奪ってはならない人間の人格の基本に関わる根源的な価値を保護しようとするところにある。
先のNHKの裁判員候補者アンケート結果では「どちらかと言えば参加したくない」という人が42%に上っている。本音は参加したくないという人の合計は58%と過半数を占める。だが、逆にいえば、裁判員に選ばれてしまったのだから仕方がないと思って、しぶしぶ従う人を含めれば、8割の人が結果として裁判員に参加することになる。
このときに「絶対に参加したくない」16%の人を、多数の人が我慢しているのに自分だけ「国民の義務」に反して身勝手なことを言うわがままな奴だと非難するなら、これは、人権という考え方を全く理解していないことになる

(なお、同日、午前にNHKが伝えた、一般の世論調査では本音は参加したくない派の合計は75%、「絶対に参加したくない」は27%だ。具体的に指名された人に対するアンケートでは、これが16%に減少している。一般論として聞かれれば「絶対に参加したくない」と考えていた人が、候補者に選ばれてしまった以上、国民の義務としてやむなく受け容れたという人が相当数いることが想像される。候補者に選ばれた後でも、それでもなお、絶対に参加したくないという人は、相当な覚悟を持って裁判員を拒否する人だと考えるのが相当だろう)。

国会は多数決で政治的に意思決定をする機関だ。裁判所は、たとえ、たった一人を除く国民の全員がよしとすることでも、憲法に違反することや人権を侵害することは許さないことを使命にしている。
「絶対に参加したくない」人の理由が、その人の世界観に関わっているのであれば、それは本来、思想・良心の自由として守られなければならない。いわば良心的裁判員拒否だ。裁判所は、本来、こうした少数者の基本的な人格に関わる権利の最後の守り手でなければならない。

具体的な裁判員候補者が、なお「絶対に参加したくない」と拒むとき、裁判員制度の矛盾が露骨に表れる。少数者の権利である人権の守り手である裁判所が自ら、少数者の権利を侵害しかねない。
この背理をどう考えるのか。
裁判官は、自らの裁判官としての「良心」に照らして、どのように対応するのか。

「すべて裁判官はその良心にしたがい、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)。
この場合、憲法上、最も問題になる規定は思想・良心の自由を定める19条だ。この自由は絶対的に保障されるとするのが憲法学の定説である。
法律は裁判員法ということになる。この両者の間に少なくとも葛藤が存在することは裁判員制度推進派といえども認めざるを得ないだろう。

「絶対に参加したくない」として裁判員への参加を拒否する人の権利を擁護するのか、あるいは蹂躙してしまうのか。
自らの思想・良心の証として裁判員への参加を拒む人を前に、その人の思想・良心の自由を保障すれば、自らその人を過料の制裁付で引っ張ってきた自分の立場が崩れる。
逆に無理強いすれば、人権擁護の最後の守り手としての自らの立場を放棄することになる。
自縄自縛とはこうしたことを言う。
この一点を考えるだけでも、今回の裁判員制度は、根本的な矛盾を抱えたまま、出発しようとしている言っていいだろう。

ことが、アメリカの陪審制のように国民による権力監視・権力制限に徹底した制度であれば、これほどの葛藤は生じないと思う。
しかし、現在の裁判員法では、この葛藤を無視することは許されない。

2009年5月23日 (土)

裁判官、どうしてだめなんですか?

裁判員制度は、市民の日常感覚を裁判に活かす制度だと、何度も説明されてきた。

この際、市民の日常感覚に問いたいことがある。
裁判は、今でも録音禁止である。
裁判所敷地内での撮影も基本的に一切禁止である。
だからいつも、判決のニュースは、お決まりのシーンしかない。あのシーンは具体的な裁判が始まる前の2分間(だったと思う)に限って、裁判所がテレビメディアの代表に対してだけ、法廷内の撮影を許可するという慣行にしたがっている。生の裁判のやりとりが決して、テレビで目に触れないのは、裁判所が撮影禁止を徹底しているからだ(昭和40年代頃まではそうではなかったと先輩弁護士は言うが、僕が弁護士になってからは、生の裁判シーンは決してテレビで見ることはできない)。
裁判に関係なくても、裁判所の敷地の中で撮影することは禁止である。カメラは裁判所の敷地の中に入ってはいけないのである。テレビの当事者の入廷シーンがお決まりなのもそのせいである。テレビメディアとしては、工夫の仕様がないのである。
テレビだけではない、むろん一般の市民も敷地に一歩でも入ったら、何も撮影してはいけない。

真剣に裁判に取り組もうとする裁判員の中には、きっと証言を一言も聞き漏らすまいとして、ヴォイスレコーダーに録音しようとする方もいるだろう。しかし、録音しているのがばれると、裁判官からきついお叱りがある筈だ。「裁判官、どうしてだめなんですか?」皆さんには是非、裁判官を問いつめてほしい。市民の日常感覚を満足させるような回答は決してできないはずだからだ。

まず、裁判官は、「裁判所で責任をもって録音をしているから裁判員の方が録音する必要はありません」とでも答えるだろう。しかし、まじめな裁判員は、「私は自宅に帰ってから今日の証言をもう一度、正確にまとめて明日の裁判に臨みたいので録音しているのです」と答えてみよう。これに対して裁判官はきっと、「ダメなものはダメ」という程度の答えしかしようがないと僕は見る。「法廷での印象で判断してもらえばいいんですよ」などでも答えようものなら、裁判員裁判は情緒に流れた大雑把なものでよろしいと自白しているようなものだ

合議の内容については、守秘義務が課されているが、録音しようとしたら、ろくに理由もないのに叱られたということは、守秘義務の範疇ではない。理由もなく叱られたとどんどんマスコミに訴えてほしい。「市民に開かれた裁判所」になるにはそれくらいの洗礼を受けることをこの際、最高裁も覚悟すべきだ。

各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その3」でも書いたが、僕は基本的に裁判所が好きだし、裁判官を基本的には信頼している。
しかし、この録音禁止(特に刑事事件において)と、厳格な撮影禁止は、納得していない

市民の日常感覚を大切にするというなら、まずは、録音禁止、撮影禁止の理由を市民の日常感覚で理解できるようにわかりやすく説明する義務が裁判所にはあるだろう。
また、裁判員制度を肯定的に考える方は、敷地に一歩でも入ったら、撮影禁止というこの厳格な扱いが市民の日常感覚から見て理解できるか裁判所に問いただしてみてほしい。それこそが、まさに市民の感覚を裁判所に入れ、裁判所を変えていくことにつながることではないだろうか。

追伸
いっとき、「裁判員制度」(だったと思う。とにかく裁判員制度を宣伝する文句だった。撮影できないので、確言ができない)と大文字で書いたジャケットを裁判所の職員の方が、一斉に着せられていたことがあった。裁判所は、ステッカーや、ワッペン、腕章などは、基本的に敷地内持ち込み禁止である。

(イラク戦争開戦当時だったか、自衛隊のイラク派遣直前頃だったかに、「イラク戦争反対」のバッジだったかワッペンを付けて果敢に東京地裁の建物に入った弁護士が(法廷の中では自発的に自分で外したと聞いた)、裁判所の警備の方に執拗につけ回されたという話を聞いたこともあった。トランシーバーを使って、「対象は現在、X階をY方へ移動中」などという大捕物になったと聞いた記憶だ)。

「裁判員制度」ジャケット運動は、裁判所が自分で禁止したことを自分でやっていたことになる。さすがに、これは、自己矛盾だということに、裁判所は気づいたようだ。この滑稽な一斉ジャケット運動は、ほんの一時のことで終わった。

2009年5月22日 (金)

各党は、裁判員制度廃止を公約せよ! その5

保坂展人議員のブログに5月21日に国会内で開かれた裁判員制度を見直す議員連盟の総会の模様が記録されている。
見直せ、裁判員制度、各議員の発言の内容は豊かで、議員の率直な自己批判も含め、興味深く、また共感するところが多い。

良心的な議員の先生方には、是非、最終的に裁判員法廃止に向けて頑張っていただきたい。
個人の公約でも、きっと得票は増えると思う。
選挙も、頑張ってくださ~い!!

それにしても、こうした良心的な議員の信頼まで裏切った法曹三者の罪は重い。

2009年5月21日 (木)

各党は、裁判員制度廃止を公約せよ! その4

クマのプーさんのブログ が伝えるところでは、「裁判員法の廃止を求める会」 は昨5月20日、「国会は、すみやかに、裁判員法の施行を停止する旨の法律を制定し、裁判員法の施行を停止して、同法を再検討せよ。」との声明を発表した。

先般のNHKの世論調査及び裁判員候補者アンケートの結果を踏まえれば、国民の声を反映した至極まっとうな主張である。その主張は、まさに民主的と言ってもよいだろう。

声明で同会の構成を見ると、代表は小田村四郎氏、代表代行は大久保太郎氏となっている。僕の知ったメンバーは理事も含めて誰もいない。代表の小田村四郎氏は元拓殖大学総長ということであるから、僕とはおよそ思想傾向が違いそうだ。
同会のHPには裁判員制度に反対する理由が2回に分けて掲載されている(「裁判員制度を廃止しよう」  「裁判員法を廃止しよう」)。求めによりこの記事を執筆したとされる「国民新聞」はトップページの見出しを見るだけでも一見明白に右翼である。見出し項目だけで、僕とは、傾向的に悉く対立しそうである。

しかし、裁判員制度は、右から見ても左から見てもあかんのである。右から見るといいが、左から見るとあかんものもあるが、裁判員制度はそうではない

先の引用記事が、右派に向かって、

たしかに物事には、あの人たちが賛成するなら、反対するなら、こちらは反対だ、賛成だ、ということで片付けていいものもある。しかし、左右の立場は違うが共に反対、賛成というものもある。裁判員制度はそのよい例である。

と呼びかけているところには拍手~!である。
その前の段落にはこうある。

高山俊吉氏は、元青年法律家協会の議長である。つまり左翼だ。これをもって裁判員制度は左翼が反対しているから、国のためには良い制度ではないか、という人がいる。ではNHK受信料不払いはどうか。中村燦元独協大教授が取り組んでいるが、共産党もやっていたではないか。部落解放同盟と一番戦っているのは共産党ではないか。鳥取県で人権擁護条例ができたとき、これに正面から反対したのは鳥取弁護士会だがこの会長は共産党である。

冒頭にある高山俊吉氏は僕が弁護士を志す原点を与えてくれた弁護士の一人である。
彼が情熱を傾けて事件に臨む姿勢が「楽しそうにみえた」から、僕も現場や巷に張り付いた弁護士になりたいと思った。弁護士稼業が実は大変な仕事であるなんてことは、弁護士になってから初めて知ることになる。と言って、僕は、後悔したことはない。上手に乗せてくれたものだと高山氏の手腕に感心するばかりである。

でもって、もちろん高山氏が呼びかけ人の中心となった「裁判員制度はいらない!大運動」も裁判員法施行を迎えた本5月21日、裁判員制度実施に抗議する声明を発表した。こちらの呼びかけ人は、直接の面識はなくとも、よく名前を知った人が多い。僕が親近感を覚えるのは、こちらのグループである(国民新聞が目の敵にする人も多く含まれているだろう)。
今日のブログをクマのプーさんのブログからの引用で始めたのも、クマのプーさんが天木直人ファンを自称しているからでもある。天木直人さんは、イラク戦争開戦時にイラク戦争反対を表明したがゆえに、退職に追い込まれた元レバノン大使である。僕も関わったイラク派兵差止訴訟の中心的な原告の一人でもあった。官僚組織の中にありながら、公然と政府の政策を批判するという気骨、勇気、信念と覚悟において、どれほど尊敬しても尊敬しすぎることはない天木氏を退職に追い込んだ当時の外務官僚トップは竹内行夫氏だ。名古屋高等裁判所が自衛隊イラク訴訟で違憲判決を出した後まもなく、なぜか当の竹内行夫氏が最高裁裁判官に任命された。このことは、またいずれ書く機会があるだろう)。

もう一度、繰り返す。
裁判員制度は右から見たら良いが、左から見たら悪い、あるいは、右から見たら悪いが、左から見たら良いなんぞという制度では断じてない。
違憲の疑いが濃厚だというのが、右派、左派共通の見解なのである。
僕も左右それぞれの主張とは多少ずれたところがあるかもしれないが、憲法原則と関わる部分で制度的な問題があると思っている。

しかも、どの世論調査も、裁判員制度反対が圧倒的な民意であることを示しているのである。正義も理もある。しかも、制度廃止を公約すれば、圧倒的な民意の支持も得られるのだ。したがって、政党にとっては、利もある。これほど恰好の公約テーマはないと断言してもよい。

お願いだから、各党よ、裁判員制度廃止を公約してくださ~い!!

追伸
あらかじめ断っておくけれども、僕には、違憲訴訟を担うような体力も気力もない。最高裁が主導したものを裁判所に提訴して違憲性を争うなどということは、裁判所に自分で自分を裁けと迫るに等しく、およそ不可能に近いほど困難であることは目に見えている。僕は日弁連の不甲斐ない一会員であって、それ以上でも以下でもないのである。国会で廃止すれば、すぐに消えてなくなる訳なので、議員の先生方にお願いしているのです。m(__)m
頭を下げろと言われれば、何度でも下げますから、議員の先生方、裁判員法を廃止してくださいませ。
m(__)m m(__)m もひとつオマケに  m(__)m

2009年5月19日 (火)

各政党は、裁判員制度に反対せよ! その3

【番外編】 期待はずれですみませんm(__)m

現在の裁判員制度には憲法の基本原理からも問題があるなどと大見得を切っておきながら、海賊やピースボートの話にそれた。
裁判員制度は悪い。
それははっきりしているが、本題に入る前に当該の業界人ならではの実感を一言。

この2年ほど(もっと長かったかもしれない)、名古屋の裁判所は文字通り上へ下への大騒ぎ状態だった。ことは裁判員制度導入に伴う物理的な話である。

弁護士になって以来、20年あまり、民事第○部は何階のフロア、民事第△部は何階のフロアというのが定位置であった。
総じて民事部は6階と7階(刑事は確か4階と5階だった。民事には特殊事件専門の部について多少の例外があった)、高等裁判所は10階と決まっていた。だから事件を扱う部が何部かさえわかっていれば、行くべき場所は決まっていた。

これが、この2年ほど、めまぐるしく動いたのである。定刻に間に合うように出かけても(マチベンの場合、ほぼ40分前に事務所を出る)、あるべき場所に該当の部がなく、あわてて走り回り、挙げ句はこれまで決してあり得なかった場所に該当の部が突然、出現したりと、大変だったのである。
部の移動が一度であればともかく、2度も3度も起きたのである。

裁判所に直接確認した訳ではないが、ほぼ全ては、裁判員制度導入のための法廷作りや、裁判員制度導入に伴う部屋作りのためである。2年ないしそれ以上の期間、ずっと裁判所は工事が続いていた。裁判所の北側駐車場には、工事用の区画が設けられて一般車の進入ができなくなり、工事用の事務所が建っていた。

裁判員制度を導入するためには、裁判員裁判用の法廷を作ることはむろん、裁判員を選任するための質問の部屋や、裁判員や候補者の待機室や、合議をする部屋を作らなければならない。

しかし、工事中だからといって、裁判所を閉める訳にはいかない。日常の裁判をこなしながら、大改装が進められたのである。

弁護士が大変な思いをしたのであるから、工事の進行の度に、膨大な事件記録を抱えて引っ越しをしなければならない裁判所職員はもっと大変な思いをしたろう。引っ越しに伴って裁判記録が紛失したなどということは万が一にもあってはならない。精神的にも相当、負担だったのではないかと想像する。きっと裁判官も裁判の内容について夢中で考えながら、いつもの部屋に入ったら、全然違うメンバーがいて、「こりゃまた、どうも失礼しました。それにしても、俺の部屋どこに行ったんだったっけ」なんてこともあったのではないかと勝手に想像してしまうくらい、本当に大変だったのである。

さて、裁判制度実施を目前にして、ようやく各部が収まるべき位置に収まった。

と同時にあれまぁ、気がついたら、これまでの裁判所のイメージとはがらっと変わって、親切な案内掲示板が各所に掲示されているではないか。これがまた、淡いピンクと黄緑を基調とした、なかなかに落ち着いた快いデザインである(少なくとも裁判員制度宣伝用のゆるキャラよりよほどよい)。

名古屋の裁判所は、法廷棟と事務棟に分かれていながら、これが少なくとも外観上は一体の建物になっていて、かつ、法廷棟と事務棟で天井の高さが違うという複雑な作りである(法廷棟は11階建て、事務棟は13階建てなのに同じ高さの一つのビルに収まっている)。このため天井が高い法廷棟では、たとえば3階がない。4階から階段を下りると突然2階になるというミラクルな建物である。この構造が一目でわかるようなカラフルな(但し、品位を損なわない)看板が作られたのである。

また、階段に沿って、車椅子を上下させる昇降機が付けられたり(これまでここは車椅子の人にとっては、数人の助けがないと通行不能だった)、何やらトイレも改装されていたりと、ずいぶんと変わった。市民の目線というスローガンが裁判所の箱物にはとりあえず生かされたようである。こんな一面が、市民に開かれようとする裁判所の善意を感じさせたりする。

しかし、相変わらず、録音禁止、裁判所敷地内の撮影禁止である。裁判員になった人は、裁判所の敷地内で思わず携帯電話で写真を撮りたくなろうし(一生の記念になるもんね)、尋問を忘れないようにと、ヴォイスレコーダーに録音しようとしたりするだろう。是非、そうしてみてほしい。そして、裁判官に叱られてみてほしい。そして「どうしていけないんですか」と食い下がってほしい、何と言っても裁判員制度は市民の目線で裁判所を洗い直そうというのが第1原理だから、裁判官は懇切丁寧に撮影や録音が禁止されている理由を市民にわかるように十分に説明しなければならない義務がある。はてさて、市民が納得する答えを裁判所がするであろうか。

ま、撮影や録音が解禁されて、裁判所が市民にわかりやすい役所になったあたりで、裁判員制度廃止となるのが、ごく一般的に突き放した見方をすれば、一番よいのかもしれない。

ただ、その間に「絶対に参加したくない」という裁判員候補者が裁判員を強制される精神的物理的苦痛は取り返しがつかないかもしれない。雑ぱくな裁判で有罪や死刑にされたりした被告人の人権も取り返しがつかないかもしれない。実験台にされた身はたまらないから、今回の話は極めて不謹慎なのかもしれぬ。

僕は、裁判所は役所の中では、比較的、親切な方だと思っている。多少間違えた書面を出しても、書記官の方が、ここをこう直してくださいと、やさしく教えてくれる。食いついても、ちゃんと理由を教えてくれる。また、一昔前と違って、本人訴訟だからといって、やたら冷たくする裁判官もずいぶん減った。だから、僕は基本的には、裁判所は嫌いではないし、裁判官の良心をたいていの場合は、信じている。

と、横道ばかりにそれて、本日はおしまいなのである。各党に対して、裁判員制度に反対せよ、と言う割には、不甲斐ないのである。それは日弁連が裁判員制度推進の方針で固まっているので、なかなか憲法論に踏み込む勇気がないのである。

別に目に見える不利益があるという訳ではない。空気が何となく言い出しにくいのである。こういえば、わかってもらえる人にはわかってもらえるかもしれない。北朝鮮が4月5日に打ち上げた飛翔体を「ミサイル」と呼ばず、「人工衛星」と言うと、そのとたんに、周囲の風当たりが強くなる、あるいは風当たりが強くなるように想像してしまう、だから、先端部の形状から人工衛星である可能性が高いとか思ったとしても、とりあえず、「ミサイル」と言って自分を裏切って差し障りなくごまかしておきましょうとか。そんな気分が、気弱な日弁連会員の中にはあったりするのである。決して、裁判員制度推進が日弁連会員の総意でもないし、おそらく多分、多数でもないのだけれど、とにかく空気が言い出しにくいので、二の足を踏んだ今回であった。

以上、番外編、おしまい。

追伸

なお、北朝鮮が4月5日に打ち上げた飛翔体を「ミサイル」と断定した国や国会(但し、共産党は未確認を理由に反対。社民党は棄権)は、日本以外にはないのではないか。

ミサイルと断定するためには先端に爆発物が搭載されていることが確認されなければならない。今回の飛翔体の打ち上げが北朝鮮によるミサイル能力の誇示、ないしミサイル開発計画の一環であることは事実であろうが、国際社会では今回打ち上げられた飛翔体は人工衛星、せいぜいがロケットということでコンセンサスがあるようにみえる。

2009年5月16日 (土)

ソマリア沖海賊問題自衛隊派遣に関連して思うこと

ピースボートがソマリア沖で海自に護衛されたことが報じられ、ネットで非難ごうごうのようだ。
元記事は産経新聞の下記記事のようだ。
「『反対、でも守って』 ピースボート 海自が護衛 ソマリア沖」

この記事も含めて思うところだが、国内の報道は、どれもソマリアやソマリア沖の客観情勢を離れて、自衛隊ばかりに注目している。派遣したのであれば、派遣した先の情勢はどのようなものなのか、派遣された先の全体情勢の中で自衛隊はどういう任務を行っているのか、きちんと報じられるべきだし、議論されるべきだろう。自衛隊だけに注目して、一面的な報道を続けるメディアのあり方は、あまりにも内向き過ぎる。

ソ マリア沖では、少なくとも二つの軍事作戦が展開されている。一つはEUの軍事作戦「アタランタ」。もう一つは米海軍組織(但し多国籍)が展開する合同任務 部隊(CTF)151だ。後者はテロとの闘いである「不朽の自由作戦」の内、海上阻止活動を担う合同任務部隊(CTF)150から今年1月分離独立した部隊だ
また国連は、暫定移行政府に協力する各国軍に対して、ソマリア領域内(領土を含む)での武力行使を容認し、今年1月には呼びかけに応じた加盟国の「コンタクトグループ」会議も開かれており、国連の軍事作戦も存在するはずだ。

昨年秋には、世界的な米軍再編に伴いエジプトを除くアフリカ大陸全体を対象にする米軍アフリカ総司令部も創設され、指揮下の統合合同任務部隊「アフリカの角」は、CTF150、151にも参加ないし関与していると伝えられている。(以上、雑誌「世界」09年3月号谷口長世 (国際ジャーナリスト)「狙いはアフリカのエネルギー資源確保だ」)。

こ れらの軍事作戦の目的は何なのか、日本国内では全く報道されない。自衛隊がこれらの軍事作戦とどういう関係にあるのか、参加しているのか、参加していない のか、将来にわたって参加する意思はないのか、何も報道もされない。国会で議論された形跡もないようだ。国際的思考停止状態である。

護憲派が繰り返す失業した哀れな漁師が海賊になったというストーリーも疑問だ。海賊の中核は、98年にソマリアから分離独立を宣言したプントランド自治政府のコーストガード(沿岸警備隊)ないしその後身だとの指摘もある。海賊の実態を踏まえればこの見方には相応に説得力がある(これ を育成したのは英国の民間警備会社「ハートセキュリティ」)。単純に海賊とみなしてよいのかどうか、一定の主張のある政治勢力と見るべきではないのか、疑問がある(参照同上。竹田いさみ (獨協大学)「ソマリア海賊の深層に迫る」)。

ソマリア沖にはプントランド自治政府のコーストガードあるいはその後身が一定の規律をもって「海賊行為」をしている。そしてこれと対決するために列強の軍隊がひしめいているのだ。とすれば、こうした海域は通常の用語でいえば、戦場というのがふさわしい。

ピースボートも、ピースボートだとつくづく思う。海自に護衛された事態を弁解すべきではないだろう。率直に反省を表明してもらいたい。正確な情勢認識を持てば、のこのこと戦場に出かけて、海上自衛隊に護衛されるなどという自己矛盾を敢えて犯すようなことはなかったはずだ。

右も左も、総じて内向きである。

2009年5月15日 (金)

各政党は、裁判員制度廃止を公約せよ!その2

昨日に続いて、裁判員制度について、今日は、NHKの調査結果を整理してみます。

【世論調査】 およそ2900名に電話調査。およそ1700名から回答。
Q 裁判員として裁判に参加したいか
①「ぜひ参加したい」5%
②「参加してもよい」20%
③「できれば参加したくない」45%
④「絶対に参加したくない」27%

③、④の「参加したくない」が75%と
①、②の「参加したい」の25%を圧倒しています。
「参加したい」は半年前の調査より7ポイント減少。

Q 裁判員制度は必要か
①「必要」9%
②「どちらかといえば必要」26%
③「どちらかといえば必要ない」39%
④「必要ない」が19%

③、④の「必要ない」が58%
①、②の「必要」は35%にとどまる。
「必要ない」は、半年前より8ポイント増。

NHKは

実施の直前になっても、裁判員制度の意義を見いだせず、参加にも消極的な人が多い実情が浮かび上がっています。

と伝えている。

【裁判員候補調査】 168人にアンケート調査。121人から回答

Q 裁判員として裁判に参加したいか

①「ぜひ参加したい」17%
②「どちらかといえば参加したい」24%
③「どちらかといえば参加したくない」42%
④「絶対参加したくない」16%
「参加したくない」は58%

Q 裁判員として参加することに
「不安」29%
「どちらかといえば不安」46%
75%が不安。

もともと裁判員制度は、「国民の目線」を大事にするという建前で導入が決まった筈。今や「国民の目線」は、裁判員制度を知れば知るほど、制度自体に否定的である。それでも強引に制度を実施しようとするのは、「国民の目線」重視の建前と自己矛盾しているのではないか。

一般の世論調査では75%が「参加したくない」としているのに、具体的な候補者に対するアンケートでは58%に低下するあたりには、「国民の義務だ」と言われ、自分を納得させようとする律儀な日本人の国民性がかいま見えるようでもある(ある方面から言えば、日本人の個の弱さという言い方もあろう)。

しかし、それにしても2割近い候補者が「絶対に参加したくない」としている。僕には、候補者に指名され、「義務だ」と言われても、なお「絶対に参加したくない」という考えは、その人の確信≒良心のように見える。
裁判所は「絶対に参加したくない」いう候補者をどう扱うのだろうか。意義を見いだせない制度への参加を、それでも強制するのだろうか。
だとすれば、それは「司法の傲慢」というべきであろう。

現在の裁判員制度については、憲法の基本原理から見ても、言いたいことがある。
少し、この話題を続けてみたい。

2009年5月14日 (木)

各政党は、裁判員制度廃止を公約せよ!

今日、NHKが、裁判員制度に関して、2種類の調査結果を発表した。
朝のニュースでは、世論調査結果として
裁判員 意味見いだせずが多数と報じ、
夕方のニュースでは
「裁判員候補者“不安”が75%」と報じた。

裁判員制度の実施まであと1週間である。
新聞やメディアの大半が、裁判員制度を肯定的に報じている。
そうした中、却って裁判員制度に対する否定的意見が増えているのだ。
朝、仕事へ出しなに「裁判員、意味見いだせずが多数」のニュースに接し、僕は涙が出る思いだった。
僕自身の考え方やNHKの報道の内容については、今日は触れない。ただ、現在の裁判員制度が法曹三者と呼ばれる最高裁(裁判所)、法務省(検察庁)、日弁連(弁護士会)、それぞれの思惑と利害が絡んで、全く目的や意味が見いだせない奇怪なものになっているということだけは、はっきり言っておきたい。法曹三者は国民をだしにしてそれぞれ自分に都合のよい制度を作ろうと画策した。このために国民は意味のないものに甚大な犠牲を払うことを強いられようとしている。
報道されれば、されるほどその奇怪さと無意味さが暴露されて否定的な意見が増えているということだ。

法曹三者なぞという偉そうな組織より国民の方がよほど賢明である。国民に、深く、深く敬意を表する。

衆議院選挙が近い。
各政党は、選挙で勝つためにも、是非とも、裁判員制度の廃止を公約に掲げていただきたい。世論操作を尽くしても、これほど国民が誘導されない課題は滅多にないのだ。裁判員制度反対を掲げれば、獲得票が増えるのは確実である。
それぞれ各党は、裁判員法成立に賛成した過去がある。平成19年4月11日の参議院本会議議事録によれば全会一致で可決成立している。反対した政党はないのだ。しかし、だからこそ、今さら過去にこだわる必要はないだろう。だれが間違えた、かれが間違えたと争い合う必要もないからだ。

「論語」にいう。「過(あやま)ちて即(すなわち)改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」と。また、いう。「過(あやま)ちて改めざるを過(あやま)ちと謂(い)う」とも。

刑事裁判は、法曹三者が専門家だ。立場と利害が対立する専門家が一致して勧めてきたので、良い制度だと思い込まされたと、法曹三者にだまされたことにすればいい。

各政党よ、まだ遅くない。裁判員制度廃止を公約して選挙を戦ってくださ~い!!
     日弁連会員の情けない一会員、街の弁護士

追伸

NHKも、ときには時事ニュースで、いい報道もするんだね。感心した~。
調査を企画したプロデューサーに自らの非力を恥じつつ、篤く感謝します!!

2009年5月11日 (月)

「まんだらけ」初体験

若い友人と会った。

彼女が「まんだらけ」で売却したいものがあるということで、大須へお供した。
今日は仕事があるので、背広姿である。
そのため一瞬、店に入るのを躊躇した。
中を覗くと、背広姿の客もいる。
別にコスプレしなくても入れるんだとわかり、彼女にお供した。
別に彼女がコスプレしている訳ではないが、かなりファッションに気を遣っているので、背広姿で入るのは野暮ではないかとひるんだのである。

見積もりが出るまで20分ほど、どうせ入ったのだからと探索すると、あらまあ、懐かしい雑誌がいっぱいあるではないか。
ジャンプやサンデー、マガジンはもちろん、小学○年生まである。
ガロを見つけて強烈に懐かしくなり、愛読していたCOMを探す。
COMを知ったのは高校に入る前後だったと思うからCOM晩期である。独特の愛着から、これがいまだに捨てられずにとってある。
初期のものほど高い値がついていたが、僕がCOMに出会う直前のものだと420円である。安い!思わず2冊、ご購入となった。
彼女がわざわざ売却に来たグッズは200円。差し引き640円+駐車場代のマイナスであるが、僕は何だか特をした気分になり、彼女はゴミを増やさなくてよかったと自分を納得させた。

私は、テレビで見る「まんだらけ」の印象からか、コスプレだらけのオタクの店という印象を持っていた。
何のことはない。ネットで調べたら、ガロの漫画家古川益三が創設者というではないか。
息子が、マイナーなコミック誌にかなり凝っているのを、少し引いて見ていたが、結局、私には息子と同じ血が流れていたのである。
それにしてもコスプレだらけという印象はどうしてすり込まれたのか、まもなく54歳になる。相当に「おじさん」になったというしかあるまい。

追記
懐かしさのあまり、やまだ紫さんの単行本をさがしたが、時間内には見つからなかった。やまだ紫さんは僕にとってはCOMの象徴の一人だった。

今年5月5日に亡くなられたと、今、やまねこネットで知った。
粛然とした。
心からご冥福をお祈りしたい。

2009年5月 9日 (土)

緑地のみずみずしさ

今回は、僕のジョギングコースの緑地公園の花々を。

090405__2

緑地公園は、四季折々いろいろな姿を見せてくれます。

走る楽しさは、体から澱が抜けていくこと。澱が抜けると、豊かな自然との一体感を味わうことができます。


今回は4月から5月にかけての写真。

090504

僕は、花見の季節が終わり、人混みがなくなった後が、実は見頃だと思っています。
木々が様々な緑を見せてくれます。芽生えたばかりの本当に淡い緑から濃く深い緑まで、木々が見せる緑のバリエーションは、無限です。その間に花のピンクや黄色い葉が混じる様子は何ともいえません。

090504_2

ただ、それを写真にできるかというと、僕の技術なぞでは、とうていむつかしくて、ご紹介できるのは、花ばかりですみません。

090504_3

マイジョギングコースは、1週ほぼ3,3キロ、標高差40m。

これを3周くらいをめどにゆっくり走っています。

090504_4

この季節、親子連れがいっぱい楽しげに遊んでいます。
だけど、人物中心の写真は、何やら掲載しづらい世の雰囲気なのが残念です。

写真入りの日記のレイアウトって、難しいんだね (^^ゞ


2009年5月 7日 (木)

憲法記念日 続々

また、憲法記念日の話題で申し訳ないです。
西部遭氏が主張したという「廃憲論」という言葉に妙に関心を感じてしまったものですから。

5月3日には愛知県でも憲法集会が開かれた。護憲・改憲・中立の立場で3つの集会が開かれたことが報道されている。

改憲派の集会では西部邁氏が講師として講演し、「廃憲」を訴えたという。

廃憲ということは、近代国民国家を解体することである。法律的には、近代国民国家は、憲法によって国家の仕組みや国家の理念を定めることによって生まれたものだから、憲法を廃止するということは法的には、国民国家の枠組みをなくすということに他ならない。早い話が国会も政府も裁判所も自治体も憲法が決めているのだから、廃憲するということは、全部、いったんやめにしようという主張なのだ。

僕は、近代国民国家が成立して以来、戦争は一般民衆を巻き込んで、大規模化し、悲劇を拡大していったと理解している。国民国家こそが、戦争の元凶だとまで思い詰めている。地上から国民国家という枠組みがなくなれば、きっと一般民衆が犠牲にされる、今のような悲惨な戦争はなくなると思う。

だから、廃憲によって近代国民国家を解体しようとする西部遭氏の意見には、僕も究極のところで賛成である。

で、しかも僕の直感では、近代国民国家という枠組みや、そのベースとなった資本主義経済は、遠からぬ将来、決定的な壁にぶつかると思っている(ケインズの予言によれば、遅くともあと20年くらいの内には、そうした事態が訪れることになっていると読んだ覚えがある)。

だから、近代国民国家の解体=廃憲も全くの夢想という訳でもない。

ただし、5月3日の朝日新聞朝刊の報道記事を読む限りでは、どうも西部氏は、占領軍が押しつけた憲法だからということを廃憲の理由にしているようだ。
僕は、人類最大の悲劇の一つである戦争をなくすためには、究極的には国民国家という枠組みを解体することが必要だろうから、廃憲したいという立場である。
結果は、同じでも理由は違う。
果たして、僕は西部氏のお仲間に入れていただくことができるであろうか。(^-^;

2009年5月 5日 (火)

憲法記念日・続き

まだ連休中なので、憲法のお話の続きでご勘弁を。

5月3日、自衛隊イラク派兵違憲判決の報告をさせていただいた集会の主催団体は
「フォーラム平和・三重」だった。

この団体は、自治労・日教組・私鉄労組や個人会員からなる護憲団体だ。
開会前に、議長の前嶌徳男さんや、事務局長の酒井幸久さんにご挨拶させていただく機会があった。

憲法記念日の三重県での護憲側の集会としては最大規模になる集会とのこと。イラク弁護団のメーリングリストに流れた講師募集に答えて気軽に手を挙げて学習会に行くことにしただけだったので、ちょっと話が違うがや、えりゃーことになったと、内心冷や汗だった。

しかし、議長の前嶌さんの開会挨拶を聞いていて、腹がすわった。
前嶌さんの開会挨拶は、大変、熱のこもったもので、ソマリア自衛隊派遣の批判はむろんのこと、ミサイル防衛システム導入のために、北朝鮮「ミサイル」問題が最大限に利用されて過剰な騒ぎが起こされたと、世論的には逃げたいような北朝鮮「ミサイル」問題についても正面から踏み込んだ内容だった。

で、僕が話の冒頭で、「新自由主義」や憲法25条(生存権)に絡む憲法改正案の問題を話したくなったのは、前嶌さんが開会挨拶で、「新自由主義」の問題と絡めて、派遣切り・非正規雇用の問題を鋭く告発されたのに触発されたからだ。
公務員や私鉄組合は、立派な正規社員で、非正規の問題など、知らん顔していても、(遠い将来はともかくとして)当分はご自身の身分は安泰なはずだ。でも、敢えて、派遣や非正規の問題に取り組もうとおっしゃられた。

その意気に感じて、憲法25条や新自由主義に絡めて憲法が古くなったかを話してみたくなったのだ。

若い組合員の方から、平和の問題について、周りの人に伝えようとしても、なかなか広がらない、どうしたらよいかという趣旨の質問が出た。
僕は、当たり前のことを愚直にやるしかない、その努力は(こういう言い方はどうかとは思うが)「きっと神様が見ていてくれる」。
そのことを証明したのが、今回のイラク派兵違憲判決だったと思うと答えた。

私は名ばかり弁護団である。
寝食を忘れて、この裁判に関わった他の弁護団や、原告の方々の愚直な努力に、ただ頭を垂れるばかりである。

追伸

「フォーラム平和・三重」様には

角川書店「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む 川口 創 大塚 英志 

を10冊もお買い求めいただきました。心から篤く感謝申し上げます。
著者両名は印税を辞退しており、編集費を控除した印税相当額はイラクの子どもたちを支援する団体に寄付されます。
   

2009年5月 3日 (日)

今日は憲法記念日

今日は62年目の憲法記念日。
さる集会で、自衛隊イラク派兵差止訴訟名古屋高等裁判所判決について、報告させていただいた。
レジメにはなかったけれど、急に思いついたので、日本国憲法が古いかという話から始めた。
少し整理して紹介したい。

62年も前にできた憲法だから変えて当然という意見もあるけれど、それは違う。

わずか3年半前の05年10月(正式発表は11月)に自民党が新憲法草案を作成したが、この草案は「新自由主義」を憲法の基本に据えていた。
前文に「自由かつ公正で活力ある社会の発展」を図ることを謳い、基本
的人権の総則規定には「自由及び権利には責任及び義務が伴う」として「新自由主義」のイデオロギーである自己責任原則を打ち出すものだった。
わずか3年半前の案なのに、もう古くなっていないだろうか。

また、読売新聞は15年前の1994年(講演ではいい加減な記憶で97年と言ってしまった)に憲法改正試案1次案を発表したが、そこでは、生存権を定める憲法25条は削除すべきだと主張していた。日本は、十分に豊かになったので、貧困の問題は過去の問題になったという理由だった。
15年前に提言された「斬新な」読売新聞憲法改正試案の方が62年前の憲法よりはるかに古くなっていないだろうか。

僕は、日本国憲法は古くならないと思う。いろいろな意味で、今ほど新しいときはないと思う。

なぜか。

それは、日本国民の戦争体験が被害の面でも、加害の面でも極めて悲惨な人間破壊の体験だったからだ。この体験は単に日本という国や日本人の体験ではなく、人類の体験だ。
人類史に残る徹底した人間破壊という体験を通じて、人間にとって本当に大事なものは何かを選りすぐって抜き出してできたのが日本国憲法だからだ。

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