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2010年9月の5件の記事

2010年9月30日 (木)

オリコは「金融機関」か?翻弄される司法修習予定者

明日から、臨時国会が開催される。
いうまでもなく、荒れ模様である。

荒れ模様の国会で、極めて不安定な立場に置かれているのが、11月に司法修習が始まる第64期司法修習予定者である。

給費制廃止に反対する運動と民主党政権によって、彼らは給費制廃止の施行延期が決まりそうだとの報道に一縷の期待を抱いていた。

ここに来て大荒れの政治模様に、彼らは、10月4日に修習資金貸与申込の期限が迫り、やむなく貸与申請を出すことを強いられている。

昨日、電話した司法修習予定者は、とても不安そうに、やむなく修習資金の貸与申請書を作成中だっと言っていた。

周りの合格者はみんなそうだという。

先の記事に書いたとおり、結果として貸与制ではなく、「無給研修制」が実施されようとしている。

また、最高裁は、オリコを「金融機関」とみなして、「無給研修制」を強行しようとしている。

繰り返すが、そもそもオリコは最高裁規則がもともと予定した「金融機関」では断じてない。

オリコ自身も自分が「金融機関」などではないことはわきまえている。

 オリコについて

Orikoginkou


最高裁規則違反の疑いすらある。

少なくとも「最高裁の指定する金融機関」という言葉から受けるイメージと、オリコはかけ離れている。

欺罔的ですらある。

このまま施行を強行すれば、必ず将来に大きな禍根を残す。

党派を超えて国会議員に心からお願いする。
今のままでは、給費制の廃止は、あまりにも無理が多い。

臨時国会冒頭、将来の司法を担う有為な若手を失望させないために、まず、いったん「無給研修制」の施行延期を可決してもらいたい。

保証人二人を立てられず、オリコの審査も通らない修習予定者の発生が想定される事態は、まさに「経済的事情から法曹への道を断念する事態」であって、給費制廃止の付帯決議に照らしても、施行を延期すべき正当な事由がある。

保証人2人を立てられず、オリコの審査も通らない者は、現実的にもあり得る。
生活保護家庭だったら、あるいは高齢の両親の年金が国民年金だったら、保証人適格はなく、オリコの審査を通る筈もない。
彼は、法曹への道を断念せざるを得ないだろう。

私の尊敬する弁護士には生活保護家庭出身者がいる。
苦学して弁護士資格を取得した彼は70代になっても、なお社会への恩返しとして、反貧困の運動の最前線にいる。
「無給研修制」は、確実に彼のような高い志を持つ弁護士を排除する仕組みになってしまいるのだ。






2010年9月29日 (水)

最高裁のご指名「保証金融機関」はオリコで! 無給研修制へ

司法試験合格者は、1年間、司法修習を受けなければならない。

修習生は、修習に専念する義務があり、アルバイト禁止である。

昨年までは、この期間、生活費相当額が給費として支給されていた。

2004年の裁判所法改正により、今年11月に修習を開始する修習生から給費制から貸与制に変更されると説明されてきた。


現行裁判所法
第六十七条
(修習・試験)  司法修習生は、少なくとも一年間修習をした後試験に合格したときは、司法修習生の修習を終える。
○2  司法修習生は、その修習期間中、国庫から一定額の給与を受ける。ただし、修習のため通常必要な期間として最高裁判所が定める期間を超える部分については、この限りでない。
○3  第一項の修習及び試験に関する事項は、最高裁判所がこれを定める。
    ↓
新裁判所法
六十七条(修習・試験)司法修習生は、少なくとも一年間修習をした後試験に合格したときは、司法修習生の修習を終える。
2 司法修習生は、その修習期間中、最高裁判所の定めるところにより、その修習に専念しなければならない。
3 前項に定めるもののほか、第一項の修習及び試験に関する事項は、最高裁判所がこれを定める。             

第六十七条の二(修習資金の貸与等)最高裁判所は、司法修習生の修習のため通常必要な期間と して最高裁判所が定める期間、司法修習生に対し、その申請により、無利息で、修習資金(司法修習生がその修習に専念することを確保するための資金をいう。 以下この条において同じ。)を貸与するものとする。
            

私は、給費制の廃止に反対である。

理由は日弁連が主張しているとおりであるので、とりあえずここでは措く。

日弁連ー司法修習 給費制維持を!

ところが、貸与制と呼ばれながら、困窮した修習生には貸与しないことになっていることを今頃になって確認した。

新裁判所法67条の2は、「申請により、修習資金を貸与する」としており、法律上は、あたかも無条件に貸与を受けることができるように読める。

議決した国会議員もそうした意識だったろう。

しかし、最高裁は、この貸与に条件を付けた。

最高裁 司法修習生の修習資金の貸与に関する規則
第四条 修習資金の貸与を受けようとする者は、次に掲げるいずれかの者を保証人に立てなければならない。

   一 自然人二人

   二 一の金融機関(最高裁判所の指定するものに限る。)

2 前項に規定する保証人は、修習資金の貸与を受けた者と連帯して債務を負担するものとする。

 

最高裁は、昨年10月30日、法律になかった保証人を付けることを規則で定めたのだ。

 保証人の基準は、年収150万円以上、あるいは資産300万円以上の者であり、緩やかといえば緩やかではあるが、2人必要になる。

 そのような保証人が得られない場合は、「最高裁判所が指定する金融機関」の保証を得なければならなくなる。

最高裁が保証の規定を設けたのは国の債権の管理等に関する法律18条に従ったまでだとすることのようである。

しかし、保証人2名を必要とし、これが得られなければ、指定する金融機関の保証を得なければならないとし、いずれの保証も得られなければ、貸与はされない仕組みである。

これを貸与制と呼んでよいであろうか。

先に挙げたような収入・資産要件満たす保証人2名を得られない者(たとえば生活保護家庭出身者)は、おそらく指定する金融機関の審査も通る筈はないだろう。

本来、こうした者にこそ、修習に専念できるだけの資金が必要である。
しかし、最高裁規則は、この合格者を冷たく突き放すだけだ。

収入ゼロのまま、どこかで勝手に高利の金を借りて、研修を受けろということなのか、「貧乏人は、法曹になるな」というのか。

貸与を受けられいまま、アルバイト禁止で修習には専念しなければならないことが想定されているとしたら、これを「貸与制」と呼ぶのは誤りである。

司法修習に造詣の深い弁護士によれば、これは、「無給研修制」と呼ぶべきだといわれる。


しかも話はこれだけでは終わらない。

最高裁が指定する「金融機関」がオリコだということがこの8月頃になって初めて明らかになった。

ひっそりと、最高裁のホームページにアップされていたらしい。

   保証委託申込書(最高裁HPより)

もともと最高裁は、日本学生支援機構等の公的機関が望ましいと考えていたようだ。

どうして、よりによって最高裁が最も嫌いな高利貸しだったオリコが選ばれたのか。

オリコについては、消費者被害事件も発生している。

「最高裁とオリコの業務提携」などとする厳しい批判が出るのもやむを得まい。

 緊急抗議声明 全国クレジット・サラ金問題対策協議会

最高裁は指定保証金融機関を探しまくったに違いない。日本学生支援機構に断られたとしても、巷に「金融機関」は、都市銀行、地方銀行、信用金庫、ゆうちょ銀行等々、あまた掃いて捨てるほどある。

最高裁も、すくなくとも
どれもオリコよりは好ましいと思ったに違いない。


結局、指定保証金融機関になることを、軒並み断られ、最後にすがったのがオリコなのだろう。

しかし、そもそもオリコは、普通は「金融機関」とは呼ばないだろう。

オリコ自身も自分が「金融機関」などではないことはわきまえている。

 オリコについて

Orikoginkou

最高裁は、一体いつからオリコを「金融機関」の仲間に入れるようになったのだろう。

最高裁は仕切りに弁護士は多額の収入があるから、返済は容易であると給費制に反対するキャンペーンを繰り返している。

それなら都銀でも、どこでも保証を受け入れたろう。

しかし、現実は違った。金融機関は、軒並み、修習生に対する保証は客観的リスクが大き過ぎると判断したのだ。


当初、想定されていた「貸与制」の前提は、大きく崩れ、オリコを保証「金融機関」に指定するに至って、破綻したといってよい。

改正法は、11月1日に施行されようとしている。


この11月から修習が始まる第64期修習生は、最高裁が修習資金貸与申込の締め切りを10月4日に設定しているため、やむなく貸与の申込手続を強いられている。

事態は切迫している。
次の臨時国会では、冒頭で、裁判所法改正法の施行を一時停止してもらいたい。
政局がらみの展開になるだろうが、修習生が泣くことのないようにしてもらいたい。

もともと給与制廃止に当たっては、「経済的事情から法曹への道を断念する事態のない」ようにすることが付帯決議されていた。
具体化した「無給研修制」が、まさに「経済的事情から法曹への道を断念する事態」を生むものであることが明らかになったのだ。

臨時国会では是非とも、待ったなしで取り組んでほしい。

マチベンからの心からのお願いである。

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キャッシング比較のCMトラックバックがついた。

場違いで削除しようと思ったが、そのままにしておく。

何かしらの実情を反映していると思うから。10月4日


2010年9月23日 (木)

自己破産の現場から見る市民の生活-経済成長しても困窮する一般市民

厚生労働省の6月分の集計で、生活保護受給者が190万人を超えたことが判明したことが報道されている。受給者が190万人を超えるのは1955年(昭和30年)以来という。


受給世帯数は137万7930世帯で08年5月以降、過去最高を更新し続けているという。
(中日新聞9月23日共同通信配信)


1955年といえば、まだ戦争の傷跡が生々しく残っていた時代だ。
日本の実質GDP(国内総生産)は、30兆7000億円に過ぎなかった。

現在(2009年)、日本の実質GDPは、525兆円に達している。

十七倍、日本は「豊か」になった。

しかし、生活に困窮する人たちの数は、1955年にまで遡った。

単純な比較は許されないだろう。

しかし、経済成長がすなわち国民の生活の豊かさと正比例している訳ではないことはこの数字から見て取れる。


僕が、弁護士になったのは1982年(昭和57年)4月である。
当時は、サラ金被害者が厳しい取立のため自殺する例があとを絶たない時代だった。

取立を規制する仕組みもなく、弁護士が介入したからと言って、取立をやめるような生やさしいものではなかった。

必然的に、サラ金やマチ金を相手にする仕事は武闘派の色彩を帯びる、3Kの仕事だった(この場合の3Kは、きつい、怖い、危険)。

当時、サラ金被害から脱出するための唯一の手段が、破産だった。
これを武器に裁判所が支払不能を認定した破産決定後の取立は、犯罪性を帯びることを理由にして警察の介入を求めるなどの手法でサラ金と闘うパターンがようやく定着した頃だったと思う。

 

僕が、最初に所属した事務所は、消費者の破産事件を扱う、当時としては少数派の事務所だった。
僕には、似つかわしくない武闘派の仕事も、そこそここなさざるを得なかった。

だから、僕のサラ金キャリアは、かれこれ30年近くなり、その間の変化にもいろいろ思うところがある。


問題にしたいのは、弁護士費用の支払方法の変化だ。

当時、破産申立をする件数は、今とは比べものにならないほど少なかった。だから自己破産するのは、特別に困窮した人たちだった筈だ。

当時の破産申立の弁護士費用は、多分20万円から30万円程度だったと思う。

今から思えば、不思議だが、当時、この費用は、ほとんどの依頼者が一括で支払ってくれていた。本人には到底余裕がないわけだから、身内や友人に工面してもらって用立ててくれていたのである。


弁護士費用の一括払いが困難になり始めたのは、おそらくバブル末期の頃だったのではないかと思う。

1990年頃には、一括で支払えない人が出始め、僕としても特例として分割払いを受けるようになった。

但し、この頃は、分割払いの例でも、初回の支払はできるだけ10万円は支払ってほしいと要望していた。

昭和58年に貸金業法が施行され取立規制が導入されていたので、この時期には、弁護士に依頼すれば、その段階から、月々の支払は止められるようになっていた。

これまで払っていた月々の返済をやめ、身内に相談すれば、何とか10万円は工面できる金額だった。


酷な話のように聞こえるかも知れないが、大抵の人は、この条件で支払うことができた(むろん、10万円もムリという場合、完全分割払いの事件も受けていた)。


僕がこの方式を採り始めた頃、一部でも分割払いにすると、途中で払ってもらえなくなるのではないかと不安がる弁護士の方が多く、僕は少数派だったと思う。


この初回10万円の分割払い方式でも、支払えないという依頼者が一般化するのは、僕の感覚で言えば、この3、4年のことのように思う(むろん、その以前にも完全分割払いの依頼がなかった訳ではない)。

現在、僕の場合、せめて月々3万円は払ってほしいと要望している。
(管財人選任事案でなければ)実費を含めておおむね35万円で受けているので、約1年の分割払いになる。


僕の依頼者は、一貫して一般市民である。

だから、1982年頃には、周囲に頼めば、無理なく払えた金額が、1990年代には困難になり、現在では、サラ金への支払を中止しても、月3万円の支払がようやくできるという人が増えているということだ。

多重債務に陥る人の周りも、以前のように手を差しのべる余裕がなくなっている。


この間、一般市民は、バブルの一時期を除いて、一貫して貧窮傾向にあるというのが僕の実感である。


僕が弁護士になってからの日本の実質GDPの推移をたどると次のとおりになる。

  • 1982年 331兆円
  • 1990年 461兆円
  • 2000年 503兆円
  • 2009年 525兆円(以上、ウィキペディアから)

実質GDPは、2007年の561兆円をピークに減少に転じているが、大きく見れば、経済成長が続き、国民一人当たりのGDPも上昇してきた。1982年と比べれば、2倍とは言わないにしても1.6倍くらいは、この国は「豊か」になった筈である。


しかし、一般市民が豊かになっていないことは、マチベンの実感として断言できる。

一般市民は、経済が成長しても成長の果実に与れず、経済が減速すれば、一気に困窮化する。


 僕は経済のことに、とことん、疎い。
 疎いが、経済成長=生活の向上でないこと、まして経済成長=国民の幸福でないことは、自分の体験として断言する。


だから、僕は、民主党には成長戦略がないと批判したり、批判された挙げ句、菅政権が「強い経済」を第1に打ち出したりしても、全く同感できない。


仮に経済が成長するようになったとしても、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる仕組みはそのまま維持される(エコカー補助金・減税も常々疑問に思っている。結局、国民1人当たり約5000円を、車の買える500万人弱に分配する制度だったから。しかも、需要の先食い以上の展望は何もない)。


この仕組みが変わらない限り、一般市民が豊かになることはない。経験的に、そのことを痛感しているからだ。


いい加減、ここらで、経済成長しなければならないという強迫観念から自由になれる道を探してほしい。一般市民が豊かになるには、成長神話の呪縛から自由になる道を見つける以外に方法がないと思うからだ。

 僕が、思想的には真反対の佐伯啓思氏の著作をお気に入りに掲げているのは、佐伯氏が、1999年の段階で(巷では金融工学がもてはやされ、岩波書店ですら金融工学に無批判な解説本を出版していた)、アダムスミスやケインズの思想に依拠しながら、市場主義に対して根底的な批判をしていたことを共感をもって尊敬せざるを得ないからである。

 


2010年9月12日 (日)

検察かばう裁判所 厚労省村木元局長無罪判決とマチベン

 厚労省村木元局長裁判で、特捜部の捜査の杜撰さに対する批判とともに検察捜査の劣化が指摘されている。

 まちべんは、このような大事件には縁遠いが、久しぶりに国選をいくつか経験して、検察官の取り調べに劣化があるとしたら、裁判所にも責任の一端があると思うこともないではない。
 むしろ裁判所が検察をかばい続けてきた果てが、検察の捜査能力の低下を招いているといってもよいかもしれない。

 たとえば、被告人の検察官に対する調書での供述内容に明らかな矛盾点がある。体験者が語るとしたら、決してそのような供述にはなり得ないような内容があるとする。
 それは、警察官に対する供述内容とも食い違っている。むしろ警察官に対する供述内容の方が自然であり、法廷で被告人証言も警察官に対する供述内容と同じだったとする。
 そんなケースで、裁判官は、法廷での被告人の供述は信用できないとする。理由は、供述の変遷があるからだという。

 弁護士の立場からは、被告人の供述調書は、警察にしろ検察にしろ、捜査機関によるストーリーと理解しているから、検察官調書の矛盾は、捜査機関による作文によって生じた破綻だと考える。
 ところが、裁判官は、検察官無垢説に立って、供述が食い違い、かつそれ自体として矛盾が生じるとしても、それは被告人が供述を作為しているからだと考える。
 両者の見方は水と油で、交わることがない。

 結局において、裁判官の見立てが真実だったとしよう。
 それでも、話は、それだけでは終わらない。
 警察官に加えて、検察官が、改めて調書を作成するのは、警察の捜査に誤りはないかチェックし、誤りを是正することに最低限の意味があるはずだ。
 ところが、検察官は警察の調書と食い違うことを自覚すらせずに供述調書を作成しているのだ。

 検察の初歩的な職務怠慢である。
 そして、裁判所は、検察の怠慢をかばう。
 検察官の調書は事実と異なるとして、争う被告人の法廷での主張を排斥して、検察官の調書が基本的には正しいと断定する。
 ここには明らかに検察官をかばう裁判官の姿勢がある。
 これは、特殊なことではなく、日常的な姿である。
 裁判所が検察を甘やかしているのである。
 裁判官が、ミスをかばってくれるのであるあから、検察の捜査が劣化するのも、必然である。

 村木元局長事件は、検察だけに検証と自省を求めるものではない。検察をここまで劣化させた裁判所も自省するべきである。

 

2010年9月 4日 (土)

知らなかった!(汗) 検察審査会の目的

検察審査会について、前記事で一部誤解を招く可能性のある記載があったので、急ぎ訂正します。さすがに法律問題で弁護士が勘違いを広めてはいけないですものね。

そもそも検察審査会は、検察の民主化を図るためにGHQによって導入された制度だということで、「公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図る」ことが目的だそうである(検察審査会法1条)。

私は、検察が不当な不起訴処分をすることがないように、検察権力の行使(不起訴も権力行使の一態様である)を抑制するのが目的であると無前提に考えていた。とりわけ不当な圧力の下で、不起訴処分がなされることがないように公正な起訴権限の行使を担保するための重要な制度だと考えていた(マチベンでも、有力者の介入によって加害者の刑事責任が不当に軽減されていると疑われるケースに当たることはある)。

ところが、検察審査会の目的は、検察の民主化であり、「民意の反映」であるという。となると、強制起訴制度を導入した改正の目的も「民意の反映」の強化ということになる。小沢一郎の起訴が国民の声であれば、起訴相当とする議決は、誠に忠実に民意を反映したもので、検察審査会の本来の目的を如何なく果たす模範例ということになる。

しかし、やっぱりこれはおかしい。くじで選ばれた一握りの市民が一国の政治を左右する決定をするなどということは、憲法が定める統治構造のあり方と全く整合しない。今回のケースは明らかに政治的濫用であり、検察審査会の制度の枠を逸脱している。

ところで、小沢一郎さんは、素人が決めるのはおかしい等と検察審査会制度を批判したようです。でも、民意を反映した強制起訴制度はご自身も賛成してお決めになった制度ですよ。素人が決めるのはおかしいのであれば、検察審査会法改正と同時に成立した裁判員制度も、素人が判決内容を決めるのだから、もっとおかしいし、憲法上の疑義も深いです。裁判員制度の廃止も訴えなければ、一貫性がありませんよ。是非とも、裁判員制度廃止も主張してくださいな。圧倒的多数の国民は、裁判員に選ばれたくないと思っているんだから、少しは国民の人気も上がりますよ。

検察審査会の強制起訴の制度は残すべきでしょう。そのかわり「民意を反映し」等の目的規定は、削除しましょう。少数者の人権問題に直結している司法制度には基本的に民主主義的要素の導入はなじみません。今回のような政治的濫用を防ぐためには、申立人資格を被害者等に限定するという改正で対応すべきでしょう。

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