フォト

日本ブログ村

ブログランキング

  • マスコミに載らない海外記事
    本ブログとセットで読むと、世界のニュースと法律解説がセットでわかります。(;^_^A アセアセ…

  • * ランキングに参加しています *
    応援クリックしてもらえるととっても励みになります
    人気ブログランキングへ

« 最高裁は説明責任を果たせ。司法修習無給研修制 | トップページ | 仙谷発言は司法の独立の蹂躙 »

2010年10月 5日 (火)

司法の危機 検察審査会という名の民主主義

小沢一郎氏の政治資金規正法違反事件について、検察審査会が2度目の起訴相当の議決をし、小沢一郎氏の強制起訴が決定した。

僕は、特捜部の捜査のあり方が厳しく問われている中、検察審査会が再び起訴相当の決議をなすことはないだろうと思っていた。

まさか民主党代表選の当日に議決されていたとは裏をかかれた。
まだ、村木元局長の無罪判決を帰結した特捜捜査の強引さの認識については十分には定着しておらず、特捜部主任検事によるフロッピーディスクの改ざん問題は、全く予測もされていなかった時期だ。まして中国漁船衝突事件が起きるまでは、中国とのパイプとして小沢一郎が必要な存在ではないかという認識は成立する余地もなかった。


ところが、結局、二度目の起訴相当の議決がなされた。

おそらく、この事件は、国民の名において司法が政治利用された例として、歴史に残るだろう。

場合によっては、司法のあり方を根本から変えた歴史的転換点とされることになるかもしれない。

それくらい、この起訴議決には重大な意味がある。

小沢一郎氏の問題では、僕は、くじで選ばれた一握りの市民が一国の国政を左右するような決定を行うことを、検察審査会制度は本来予定していないと「勘違い」していた。

憲法の定める統治構造のあり方と、こうした検察審査会のあり方は整合しないと考えてきた。

小沢一郎氏の事件は、検察審査会の政治的濫用であると考えてきた。

しかし、メディアの多くでは、検察審査会の決定があたかも所与の前提のように扱われている。

所与の前提とはすなわち検察審査会の目的規定にある「民意」(検察審査会法第1条)であり、すなわち国民の声、国民の目線だ。

今回の議決も、メディアの論調を見る限り、民意に沿ったものと評価されており、まさに民意が反映されて検察審査会の本来の機能が果たされたということのようである。


この問題には、二つの論点がある。

一つ目は、くじで選ばれた一握りの市民が国政を左右するような決定に与るということが民主主義のあり方として許容されるかという問題であり、

二つ目は、司法のあり方を民主主義原理によって是正することが許容されるかという問題である。

実は、一つ目の問題は、本質的な問題ではないかもしれない。

国政に大きな影響を与えるような刑事事件については、国民投票によって起訴を決定するという制度を導入すれば、起訴の決定の民主性には疑いの余地がなくなる。

実際には国民投票を導入することは困難だから、科学的検証に十分、耐える厳正な世論調査を2回以上行なうという措置で代替してもよいだろう。

したがって、観念的に考える限り、くじで選ばれたにせよ、一握りの市民が「民意」を反映している限り、民主主義の問題は起きないということになる。

間接民主制を基本とする憲法の統治構造のあり方と整合するかは別論点として残る。

しかし、民主主義原理に関わる問題としては、直接民主制と間接民主制の選択の問題に帰するであろうし、大雑把に言ってしまえば、国会で国民投票(世論調査)に付することを決議することを前提要件とすれば、この問題もクリアされるように見える。

本質的な問題は、司法に民主主義原理を導入してよいのかという2点目の問題である。

この点について、僕は根本的に違和感を持つ。

司法の場で問われるのは、人権の問題であり、司法の使命は基本的人権尊の擁護にある。

人権は、多数決によっても奪うことのできない人間にとって根源的なものであると規定される。

したがって、人権の問題は、基本的に少数者の問題である。

人権の問題が顕在化するのは、多数者による決定が少数者の根源的ななにものかを侵すときである。

だからこそ、憲法は裁判官と司法の独立を定め、裁判所を敢えて民主主義から遠ざけている。

司法を支える基盤は、個々の「裁判官の良心」に過ぎない。
司法の基盤は、極めて脆弱ある。

他方、民主主義は、戦争の遂行すら正当化する強大な力を持つ。

司法の場において、民主主義が指導的な原理とされることがあれば、司法の独自性は失われ、少数者の権利の擁護者としての司法は瓦解する。

近代刑事司法において、多数者によって、「異端」が裁かれる民衆裁判が最も忌み嫌われたのも、このためである。



法改正による、検察審査会の「民意」反映の強化によって、今、司法は、戦後2度目の危機にある。

前回は政治介入という名の危機であった。

今回は、民主主義という名の危機である。

(法廷ミステリーを読むと、アメリカでは、裁判官も検察官も選挙で選ばれるのが原則のようである。
しかし、GHQの作成した日本国憲法草案は、司法と民主主義に距離を置くものとなった。
なぜ、そのようになったのか、僕は知らない。
しかし、民主主義に直結し、党派性を色濃く帯びるアメリカの司法制度より、僕は日本国憲法の司法制度の方がすぐれていると思う)


« 最高裁は説明責任を果たせ。司法修習無給研修制 | トップページ | 仙谷発言は司法の独立の蹂躙 »

司法改革」カテゴリの記事

憲法」カテゴリの記事

検察審査会・司法の独立」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/536116/49656318

この記事へのトラックバック一覧です: 司法の危機 検察審査会という名の民主主義:

» 民主主義は万能薬ではない [晴耕雨読]
 ●民主主義は万能薬ではない  どうして世界は、混乱しているのだろうか。もしいまの世界秩序が、昔とまったく同じなら絶望的である。だが、歴史を学ぶ限り、これほど無秩序になった例はない。ここまで混乱し続ける理由は、一体どこにあるのだろうか。  それはヨーロッパの破壊に原因があった。植民地時代に、それまで共存していた民族を分裂させ、互いに憎ませたり、いざこざのあった民族をひとつの国家に押し込め、略奪と搾取をくり返したせいで、民族主義という排他的な考えが広まってしまった。  さらに独立はしても、かつて... [続きを読む]

« 最高裁は説明責任を果たせ。司法修習無給研修制 | トップページ | 仙谷発言は司法の独立の蹂躙 »

無料ブログはココログ
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31