ηなのに夢のよう 森博嗣の死生観
自殺の経済損失のニュースが伝えられた頃、僕は、
森博嗣の「η(イータ)なのに夢のよう」を読んでいた。
「ηなのに夢のよう」という謎のメッセージを残す連続自殺(他殺?)事件を題材にする小説だ。
かなり粗雑な要約になるが、この小説から読み取れる自殺観は次のとおりだ。
殺人(凶悪犯罪)には動機などない。
動機と呼ばれるものは、社会が、納得して不安を抑えるために考えられた虚構に過ぎない。
同様に自殺にも動機はない。
生まれることに動機がないのと同様に、死ぬことにも動機などない。
生きることに意味がないのと同様、死ぬことにも意味などない。
最終章近く、卓越した能力を持つ科学者に森はこう語らせる。
「そんなに、深刻になる問題ではない、と私は思うの」
瀬在丸はゆっくりとした口調で言った。
「死ぬことってそれほど特別なことかしら?そうじゃないわ。本当に、身近なことなんですよ。(略)生命は刻一刻どんどん入れ替わっている。人間よりも、もっともっと短い時間しか生きられないものがたくさんあります。今鳴いている虫は、もう明日は死んでいるのよ。それが虚しい?でも、普通のことでしょう?とても平和で、穏やかな事なんです」
「まだ、若いのだから、死が遠いと感じるのも、無理はありません。私くらいになったらね、もういつ死んだっておかしくないんだから」瀬在丸は笑う。
「ですから、自殺についても、そんなに不思議なことではないと私は理解しています。なかには、生きることに執着する人もいますけれど、それとまったく同じレベルで、反対の道を選ぶ人もいる。つまり、どうせ一度死ぬのならば、自分で今と決めて死にたい、と考えるのね。そう、たとえばね、立っている場所がもうすぐ崩れ落ちるというとき、崩れるぎりぎりまで待つ人と、自分からジャンプして落ちていく人がいるんじゃない?それだけの違いでしょう?どちらも生きたのです。一回生きて、一回死んだのです。同じじゃありませんか?」
森博嗣の死生観は、諦観のような静けさも感じさせる。
悔やまなくていいんだと、遺族に告げているようで、優しくもある。
そこには、少なくとも「死んでも働け」等という心ないメッセージはない。
生きることに意味がないとすれば、そして自殺者の周囲もなぜ自殺したのだろうと後悔する必要もないのだとしたら、自殺はやはり権利、少なくとも自由の範囲に属することになるだろうか。
おそらく、そうだと僕は思う。
森は、この世の物とも思えぬ才能に恵まれた天才にとっての死生を想定する。
天才にとって、生きることのジレンマはさらに深刻になる。
なぜなら、天才にとっては、自分と自分を取り巻くものしか存在せず、社会への定着という概念が存在しないからだという。
自分が必要とされていることを実感できてこそ、人は、生きていたいと思うのではないだろうか。それが森の言う社会への定着である。
そして、自分自身を必要としてくれる存在を身近に感じられるほど、生きていたいという思いは、切実になるだろう。
仮にも自殺対策として政策を考えるのであれば、何よりも必要なのは、ばらばらにされた人間関係の回復と、働くことだけでは満たされない関係性の欲求を満たす時間の余裕だろう。
うつ病を生み出し、政府が自殺せずに働くことを想定している職場は、仕事の内容も著しく細分化されて非人間的な作業の反復となり、人間関係も分断され、しかも、表には現れない(タイムカードを押す前の、そしてタイムカードを押した後の)際限のない時間外労働を強いる職場だ。
急速に発展したトップ企業であるほど、24時間、全人生を会社に尽くすことを求める(ネットではブラックと呼ばれている)。数年で半数近くがうつ病に近い状態になって退職していく。
そうした企業環境を是正・監督することなく、自殺せずに働くことを求めても、自殺者が浮かばれるはずもない。
自殺者には、人間らしい労働と、仕事を離れた親密な人間関係こそが必要だろう。
ただ、労働力として、死んでも働け、国家財政の損失だといわれて「生きていたい」と思う者などいる筈もないのだ。
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