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2011年1月の5件の記事

2011年1月21日 (金)

準備書面の書き間違え

僕は、裁判所が概して好きである。
昨日も、裁判官の真面目な姿勢に触れて、ちょっと感動した。

訴訟関係の書面は期日の1週間前に出すのがルールである。

しかし、これを遵守するのはなかなかむつかしい。
たいてい期日間際になって、駆け込みで提出することになる。

昨日の期日も例に漏れず、2日前に駆け込みで書面を出した。
ところが、
裁判官は、
「3頁の4行目に『被告は』、とあるのは、『原告は』ではないですか」
と指摘をしてきた。
私「あ、間違いです。だいぶ直したんですが、残ってしまいました」
裁「あとの誤字などは別にいいんですが」
私「誤字などは勘弁してください」(苦笑)

緻密に記録を読み込んでいるのがわかる。
民事では裁判官は一人大体300件の事件を常時、抱えている。
期日間際になって出された書面を読み込むのは並大抵の努力ではない。
そこまで読まれていると思うと、いい加減な訴訟活動をしてはいけないなと自戒する。

まぁ、ろくに記録も読まずに独断的な判断を示す裁判官もいるにはいる。
そういう裁判官は、説得不能である。
が、概して言えば、僕の印象では、裁判官は、それぞれの個性で真摯に仕事に向き合っていると思う。

裁判の基本は事実と法律である。
裁判官は事実を認定して法律を適用する。
それは一種の職人芸の世界である。

当事者と、裁判官の息が合えば、勝ち負けはともかくとして、よい判決が生まれるし、あるいは、よい和解に導かれる。

僕は、確かに見方によっては、政治的ともいえる裁判にも関わっている。

しかし、30年近くやってこれたのは、こうした職人芸的世界と弁護士の在野の自由業的な志向が好きだからだろう。

だからこそ、憲法論を措いても、裁判所が政治利用されることには、抵抗が強い。

なお、書面で原告と被告を書き間違えるのは、僕に限らず、よく起きることである(はずであると思う)。

原告側の事件では書き間違えることはほとんどないが、被告事件のときに気分が攻勢的になってくると、依頼者である被告を原告と書き間違え、相手方である原告を被告と書き間違えるのである。
相手方である原告を追及する気分になると、当方の当事者を原告と無意識の内に呼んでしまうのである。

今回の書面は、他にも10カ所近く書き間違えがあったのを見直してほとんど訂正したが、1カ所残ってしまったのが裁判官の目に触れたのである。

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2011年1月20日 (木)

検察審査会強制起訴制度の光と闇(後半)

検察審査会の強制起訴制度の光と闇

検察審査会法の改正の積極面

 死人に口なしとばかりに、加害者側の言い分が通り、事故の真相が闇に葬られる。
そんなことがあってはならない。
そのことは民事の賠償だけでなく刑事の処分についてもいえる。
しかし、現実は、人一人亡くなった事件が拙速な捜査で、不起訴にされたり罰金で終わってしまう。
あってはならないこういうことが実は結構しばしばある。

 この事件のとき、僕は、検察審査会への申立も考えていた。
しかし、略式命令とはいえ、一応の起訴がなされたため検察審査会への申立は断念した。
検察審査会が扱うのはあくまでも不起訴処分だけだからだ。

 
 検察審査会は昭和23年からある。
かつての制度では、検察審査会が「不起訴不当」(過半数の賛成)あるいは「起訴相当」(11人中8名の賛成)の議決をしても、検察は再捜査しこそすれ、検察審査会の意見には拘束されなかった。
参考意見として聞き置くに過ぎなかったのだ。
このため被害者が不当に遇されたまま涙をのんだ事件も少なくなかった。

 こうした経過を踏まえて、検察審査会の議決に拘束力を与える法改正が平成16年になされ平成20年5月から実施された。
検察が不起訴にしても検察審査会で「起訴相当」の議決(11人の審査員の8名の賛成を要する)が二回なされれば、起訴が決定される仕組みだ。


 この改正で、こと交通事故については、検察の処分は相当改善された。
昨年4月から9月に、検察審査会に不起訴性分の審査が申し立てられた交通事故案件の内4分の1は、審査会が議決する前に検察が自主的に起訴するようになった(2009年12月27日中日新聞)。

これまで警察や検察が人命に関わる交通事故の捜査を軽く扱ってきたことを表す数字と言ってよいだろう。

 僕は、さらに、本来正式裁判によるべき、すゞさんのような死亡事故が加害者のいい加減な言い分で略式命令にされるようなケースも検察審査会の審査の対象にしてはどうかとも思う。


 この意味では、起訴権限を独占する検察官に対して、一般市民の感覚を反映して公訴権行使の適正を図るという今回の法改正の趣旨は生かされていると言えよう。


検察審査会の政治利用
 しかし、検察審査会法改正によって予想外の事態が起こっていることも無視できない。

 検察審査会への審査の申し立ては、被害者だけに限られない。
何ら利害関係がない第三者でも(告発を経て)審査の申し立ては可能だ。
世論を騒がせている小沢一郎の強制起訴は、事件とは何の関係もない市民が審査を申し立て、強制起訴議決がなされた。
この申立は当初、極端な排外主義を主張する民族主義団体の代表が自ら行ったと公表したが、実際は、保守主義者の団体であることを自認する「真実を求める会」の構成員からなされたもののようである。

彼らの狙いが民主党つぶしであったのであれば、まさに絶大な威力を発揮しているといわざるを得ない。



 民主党政権は、今や、軍事面でも経済面でも益々アメリカに対する従属を強めている。
後退局面に入ったアメリカの国力と、台頭する中国という新たな世界情勢の中で、国民が舵取り託した民主党政権は、今や自民党政権時代以上にアメリカ従属一色となっている。
東アジア共同体構想も遠い昔語りであり、普天間基地海外移設も望むべくもない。
経済弱者のための経済政策も置き去りにされ、「平成の開国」など、アメリカ主導のグローバル市場原理主義へ前のめりになっている。

 

検察審査会の闇

 検察審査会は一般市民からくじで選ばれた審査員11人が審査する。
検察審査員には、刑事記録を読む義務もなければ、どういう基準で起訴不起訴を決定するのかという基準すら示されていない。
今回の審査会は極めて短期間に起訴を議決した。

 起訴議決を受けて裁判所から検察官役に選任された3人の指定弁護士は、3800人に会員を擁する東京第2弁護士会から選任された精鋭だ。
その精鋭弁護士が検察から専用の部屋の提供を受け、検察事務官の協力を得ても、なお起訴にこぎ着けるのに何ヶ月もかかっている。

それほど複雑な事案を検察審査会は僅かな審議で決定してしまったのだ。
起訴議決では情緒的な判断が強く働いたことが窺われる。
しかも、どの程度内容のある審議がされたのかは、すべて検察審査会議の秘密の名によって闇の中にある。

 くじ引きで選ばれた一握りの市民(11人)が、ろくに証拠も見ず、直感的な判断で、国政を大きく左右するような決定をするということは、検察審査会は全く予定していなかった。

一握りの市民が国政を大きく左右するなどということは、およそ民主主義原理にそぐわない。

 しかも、民意の名の下に、このような事件が裁判所に持ち込まれるということは司法が政治に巻き込まれるということも意味する。
裁判になったからといって、テレビドラマのようにこれまでになかった決定的な証拠が突然、出てきて劇的に真実が明らかになるなどということはあり得ない。
検察の手持ちの証拠で有罪か無罪かを判断されるだけだ。
そしてこの件では本来のプロである検察は、有罪にするだけの証拠はないと判断している。

 にも拘わらず、この種事件で、判断を迫られる裁判所は、小沢一郎はクロだという「民意」の圧力を受けるだろう。
無罪にすれば、世論の批判があり、有罪にしようとすれば、おそらくこれまでの有罪のハードルを下げなければならないに違いない。
司法はあくまで独立して法律と事実のみに拘束され自らの良心にしたがって中立的な立場で判断する。

 司法は、場合によっては民意に反しても、基本的人権に関わる問題については少数者の権利を守らなければならない立場にある。
司法の独立の基盤を政治の論理が浸食しかねない現状は、司法の危機というべきだ。

 今回の強制起訴問題は、司法の極端な政治利用として歴史に汚点を残すだろう。

 近く、尖閣諸島の中国漁船の船長の起訴猶予(不起訴処分)がなされるという。
これについても、第三者による検察審査会の利用は可能だ。
くじ引きで選ばれた一握り(11人)の市民が一国の外交や命運すら左右するような決定をする可能性が現にあるのである。

 検察審査会法の改正(強制起訴の導入)は、裁判員制度の導入や法テラスに関する法律等、他の重大な司法改革案件に紛れて、十分な審理もなく、行われてしまった。
被害者以外の利害関係のない第三者の申立による強制起訴の制度は直ちに廃止すべきだ。
この種の問題は本来、本道に戻って政治プロセスで解決されるべきだ。
そうでなければ、いたずらに司法の政治化を招くことになる。それは法原理機関としての司法の基盤を揺るがすことになるだろう。

  (なお、僕は、小沢一郎を支持していない。彼はアフガニスタンに陸上自衛隊を派遣することを主張し、これまで、まがりなりにもなされてきた政府の憲法9条解釈を一挙に覆し、憲法9条の無効化を図ろうとしているからだ。しかし、それにしても、小沢一郎との対決は政治の課題であり、あるいは具体的な派兵が行われたときの司法審査の問題であって、今回のような陰謀的な司法の政治利用は残念でならない。)



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2011年1月19日 (水)

検察審査会強制起訴制度の光と闇(前半)

例年、年初に事務所から依頼者の方々を初め事務所の関係者に寒中見舞いをお送りしています。今回は、すこし時期をずらして、今日、明日に発送します。

今回は、検察審査会の強制起訴制度を取り上げました。

なぜ検察審査会に強制起訴の制度が導入されたか、強制起訴制度に考えられない盲点があることを自らの関わった具体的事件も踏まえながら、紹介してみました。

長文ですので、二日間に分けて掲載します。


ある交通死亡事故

取り調べ
 昼過ぎに始まった取り調べはまだ終わらない。
初冬の日が落ちるのは早い。
すでに外は薄暗くなっていた。
刑事は相も変わらず、すゞさんが飛び出したから、事故が起きたと認めるように迫り続けている。
すゞさんは、Kさんの義母(妻の母)だ。今年75歳になった。
自転車で信号のない交差点を横断中に、乗用車にはね飛ばされて死亡した。
Kさんは、「母は、そんな不注意なことはしない。70歳を超えても元気でしっかりしていた」と反論する。
刑事はなおもすゞさんは一時停止線があるのに、一時停止しないまま交差点に飛び出したとする主張を譲らない。
取り調べは膠着状態になった。
すでに、日は沈みかけていた。
刑事はいったん、取り調べを打ち切ると言った。
これで調べが終わるかと思ったら、夜8時30分にもう一度来るようにと告げた。


 Kさんは、目撃者ではない。
事故の時、そばにいたわけでもない。
なぜ、執拗に飛び出し事故だと認めさせようとするのか。
ほとんど意味のない取り調べに思えた。
義母の落ち度を認めさせようとする刑事の異様な執念に恐怖を感じた。

 夕食をはさんで、取り調べは再開された。
Kさんは、義母は元気で、しっかりしていた。長くアルツハイマーを病んでいた義父が三年前に亡くなり、介護から解放されてから、習い事をしたり、毎年のように孫を連れて海外旅行へ出かけたり、楽しい人生を送っていた。
事故は、その人生を断ち切ったのだと訴える。
そんな加害者を許せますか、と。
刑事は、知らぬ顔で、調書を作り始める。
Kさんはそれでもすゞさんが飛び出したという件に触れると、強く抗議して書き直させた。
刑事は作戦を変え、事故を防ごうとすればどうしたらよかったと思うかと質問を変える。
横断するときに車両が走ってきた左側を十分に確認していても、事故は起こったと思うかと尋ねる。
Kさんは、すゞさんがもう少し注意して交差点を渡ってくれていればと思うと感想を述べた。

 長い調べがようやく終わったのは午後10時を回った頃だった。

繰り返すが、Kさんは、容疑者でも目撃者でもない。
義理の息子で家族を代表していたに過ぎない。
 
法律相談
 憤懣やるかたない思いでKさんは、法律事務所を訪れた。
 本来、被害者の身内がどうしてこんな不当な取り調べを受けなければならないのか。
執拗な取り調べは、この事故の責任追及を断念して遺族を屈服させようとするものではないか。

 取り調べ以前から、Kさんには腑に落ちないことが多すぎた。
 愛知県警の自動車安全運転センターには事故の時刻、場所、当事者などが記載された交通事故証明書が保管されている。
事故の当事者欄には通常、加害者側が甲欄に、被害者側が乙欄に記載される。
ところが、Kさんが取り寄せた交通事故証明書では、死亡したすゞさんが甲の欄に、加害者であるはずのSが乙の欄に記載されていた。
甲、乙のいずれに記載されるかは本来、法律上は特に意味はないが、被害者が甲欄に記載されたのは僕も見たことがなかった。

 事故後3日目という異例の早さで始まった保険会社の示談交渉も異様だった。
保険会社は、すゞさんが、一時停止義務を無視して一方的に交差点に飛び出してきた事故だと断定して、すゞさんの過失が7割だと主張した。
本来自転車に乗っていた交通弱者のすゞさんが被害者であるべきなのに、保険会社の主張は全く逆ですゞさんを加害者扱いせんばかりのものだった。

 また、保険会社は、交差点の角にあるガソリンスタンドで大型アルミ板車が給油中で、見通しが遮られたために、自転車の発見が遅れた、アルミ板車の陰から、突然自転車が飛び出してきたとして、譲らない、

 Kさんの気持ちは、お金の問題じゃない、義母の名誉の問題だという点にあった。

 Kさんは、事故現場周辺の店舗の従業員に聞き取りを行ったり、目撃者を求める立て看板を現場に立てて事故の真実を明らかにしようとするなど真相解明に向けた熱意はなみなみならないものがあった。


 金額の差だけの問題であれば、訴訟外の示談も可能だが、この場合は、事故態様、過失割合、そしてすゞさんの名誉がかかっている。
交渉でまとまる問題でもない。
僕は早速、裁判の準備に入った。
 
略式命令

 相談が持ち込まれたのが、年末、翌年1月に、僕が検察に照会したところ、相談後まもない12月中旬には、加害者Sは、罰金25万円の略式命令になっていた。
略式命令とは、比較的軽微な事件について、被疑者が罪を争わないことに同意して行われる。
人の命が奪われた事件で、すゞさんの飛び出しが事故原因だという強引な決めつけで、わずかな罰金で加害者の刑事処分はすんでしまった。


 おそらくKさんが警察での取り調べですゞさんの飛び出しを認めさせられていれば、事件にすらされず、起訴猶予(犯罪事実は認められるが軽微なので、刑事裁判にしない処分)になっていたろう。

 なぜだかこの事件には、異様に加害者の責任を免れさせようとする圧力が働いているのを感じられた。こういう事件に出会うと、反発したくなる。自然と力が入った。

 相談後まもない年末には、現場に何度か赴いた。現場交差点にあるガソリンスタンドやタイヤ屋の聞き取りをしたが、いずれもドンという音を聞いて、交差点を振り返ったら、おばあさんが倒れており、自転車が飛ばされていたというもので、やはり直接の目撃証言は得られなかった。
現場を最後に訪れて現場の写真を撮影したのは年末も押し迫った12月27日だった。
 
訴  訟
 訴訟では、加害者側代理人は、対向車が通り過ぎた直後にすゞさんの自転車が飛び出してきたので、被害者の発見は不可能で衝突は不可避だった(すゞさんの飛び出し事故だった)と主張し、当方は、対向車が通り過ぎてから渡り始めた自転車が、対向車が通り過ぎた直後に反対車線の衝突地点にたどり着くことは、自転車の速度からして不可能だという論争になった。

 保険会社が主張していた、ガソリンスタンドで大型車が給油中だったという主張はなぜか加害者側から積極的にはなされなかった。
 
尋  問
 主尋問(加害者側代理人の尋問)で、加害者は、ガソリンスタンドに大型のアルミ板車が駐車していて交差点の見通しができなかったと証言し、訴訟の最終盤で初めて大型車の問題を持ち出した。

反対尋問で、僕が駐まっていた車両の車種改めて尋ねると、突然、タンクローリーが駐まっていた、タンクローリーのことをアルミ板車と言っていたのだと言い出した。
タンクローリーはさらに大型だから見通しが利かなかったという趣旨だ。
さきほどトラックだと言ったではないかと、尋ねても、「タンクローリーが止まっていたのははっきり覚えており、間違いありません。それで自転車を確認できなかったのです」と強弁した。

 年末の作業がようやく日の目を見るときが来た。
尋問段階になっても停車車両の問題が出なければ、最後までこの証拠は出す機会がなかったものだ。

 僕は、ガソリンスタンドの従業員の陳述書を持ち出す。
事故の音でびっくりして振り返った時、スタンドでは軽ワゴン車に給油中だった。
他に車両は駐まっていなかったとする陳述書だ。
給油記録も添えられている。

 それでも加害者は「私の記憶では大型車が駐まっていたように思えたのでそう言いました」と言い張ったものの、確信があるのかと問うとさすがに「確信はありません」と答えた。
 
結  末
 結局判決は、すゞさんの一方的な飛び出しという事故ではないことが明確にされ、過失割合も大幅に改められた。すゞさんの名誉は守られた。

 すゞさんは、75歳になっても敬老パスを使うのを注意されるほど、若々しいおばあさんだった。
裁判でも孫娘と楽しそうに写っているカナダ旅行の写真や、お稽古事の仲間との集合写真などを提出した。
そこには夫の介護から解放されて、期間10年のパスポートを取り、これから最後の人生を楽しもうしていたすゞさんの姿があった。


 少なくともすゞさんの名誉が守られたことは裁判の成果だった。

 長年の介護から解放され、これから自分のために人生を楽しもうとしていた矢先の死は本当に無念なことだったろう。

 警察からも保険会社からもついにその死の重さを悼む言葉は聞かれなかった。


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2011年1月 2日 (日)

「生物と無生物のあいだ」のもたらす生命観

エントロピー増大法則は、あくまで物理学上の話であって、日常生活に混同して使ってはいけないんだそうだ。

だけど、僕の身の回りはエントロピーそのものなのが実感だ。

ついこの間あったはずの生命保険証券が、大事なところにしまったとたん、どこかに消えてしまって困っている。

 

エントロピーとか言っていたら、ずっと前に読んだ「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一・講談社現代新書)を思い出した。

この本は、発売後3年以上経っても、まだ平積みにされているのを見かける。

それだけのことはあるよい本だと思う。

曖昧な記憶しかないので、不正確かも知れないけれど、印象に残った部分に触れてみる。

 

生命体は常にエントロピーの増大により生体秩序攪乱の危険にさらされている。

そのため生命体はエントロピーが増大する以前に、まだ健全なタンパク質を破壊して捨て去り、新たにタンパク質を合成するという代謝を繰り返しているという。

エントロピーされ放題の僕とは大違いである。

エネルギーの流れの中の周到で絶え間ない代謝が生命秩序を維持し、生命を生命たらしめているのだという。

著者が動的平衡と名付ける生命活動の特徴の一つである。

 

著者は、生命とは、絶え間ないエネルギーの流れに浮かぶ淀みのようなものだと比喩する。

川の水はどんどん流れて、水分子をとれば全く違うものなのに、よどみは同じ形を保ち続けている。

ヒトも数ヶ月で全ての細胞が入れ替わり、細胞単位では別のものになりながら、ヒトとして同一性を保ち続けている。

 

この本は僕に、生命観に関わる静かな感銘と確信を与えてくれた。

 

今こうして生きていることということと、広大な宇宙のエネルギーとはつながっているということ。

意識を有した個体としての僕が、実は宇宙の中のエネルギーの代謝現象に過ぎないということ。

孤立から救われる世界との一体感の意識とともに一種のはかなさを伴う諦観。

宮沢賢治の詩をどこか思わせる。

理系の立場からは、賛否両論あるようだが、少なくとも文科系の僕にはとても哲学的に示唆されるところがあった。


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2011年1月 1日 (土)

新年の抱負というほどでもないですが

さる大事件の関係で、昨年は後半だけでも6回韓国に渡った。

弁護士業界ではこれまでは、大事件と言っても、金額のことではなく、その有している社会的意味合いを込めて使われることが多かった。

生活ができる程度の水準の収入は何とか保障されている前提があったので、収入の多少よりも、むしろ採算に関係しない事件を、それぞれの弁護士が、それぞれの使命感に基づいて「大事件」と呼んできた。

この事件もそういう意味で大事件である。

大事件は大抵、不採算であるが、この事件の場合は「反採算」で、全ての旅費は自分持ちである。

3日前に決まって、飛行機を予約し、一泊で帰るというような急ぎの往復であるので、旅費もバカにはならない。

 

この2年近くは、一緒に行くメンバーはほぼ固定している。

繰り返し長時間をともにするので、それぞれの癖がわかってしまう。

で、同行している仲間から、からかわれるようになった。

僕が、しょっちゅう、捜し物をしていることを、だ。

搭乗手続きは面倒で、パスポートやチケット、搭乗券、携帯物品カードなど、要領よく揃えるのが苦手である。

で、パスポートを探したり、搭乗券がどこかに行ってしまったり、する。

韓国に行っても、財布を捜していたり、地下鉄に乗れば、切符を探していたりで、いつも仲間を待たせることになる。

大体、大事なものほど、どこに仕舞ったのか、わからなくなる。

からかわれている内に、他の人はそれほど整理がよいのかと思って、気づいたことがある。

これまで12年かかってきたこの大事件(2年前までは裁判事件であった)の膨大な資料を実に手際よくまとめていることにである。

およそ、大型の保管庫2個分を優に越す記録がある。

僕の場合は、あれがどこ行ったか、探すだけで半日がかりである。

出てくればいい方で、他のメンバーに頼むことになる。

大抵、たちどころに解決するのである。

(他の事件は、こんなに大量にならないので、事件記録はさすがにちゃんと整理しております。依頼者の方々、ご心配召さぬように)

で、からかわれる度に、「僕は人生の3分の1は捜し物をして過ごしているんだ」と開き直って答えている。

 

エントロピー増大の法則というのがある。

放置すれば、物はどんどん乱雑になるということで、そういえば、一人事務所の僕の専有領域はだんだん散らかっていくし、散らがる面積も広がっていく。

エントロピーそのものである。

残念ながら、忙しいというのが言い訳にはならないことを僕は熟知している。

弁護士になったばかりの頃に入った集団事務所で、僕の机は、いつもファイルが平積みなって散乱しているのに、一番、忙しい弁護士の机の上がいつも、一番きれいに片付けられていた。

忙しい、は言い訳にならぬのである。

とりあえず今年の抱負は、エントロピー増大の法則に身を任せるのを多少改めて、人生において探す時間を少し節約するため秩序回復作業を行うこととでもしておこう。

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