検察審査会強制起訴制度の光と闇(後半)
検察審査会の強制起訴制度の光と闇
検察審査会法の改正の積極面
死人に口なしとばかりに、加害者側の言い分が通り、事故の真相が闇に葬られる。
そんなことがあってはならない。
そのことは民事の賠償だけでなく刑事の処分についてもいえる。
しかし、現実は、人一人亡くなった事件が拙速な捜査で、不起訴にされたり罰金で終わってしまう。
あってはならないこういうことが実は結構しばしばある。
そんなことがあってはならない。
そのことは民事の賠償だけでなく刑事の処分についてもいえる。
しかし、現実は、人一人亡くなった事件が拙速な捜査で、不起訴にされたり罰金で終わってしまう。
あってはならないこういうことが実は結構しばしばある。
この事件のとき、僕は、検察審査会への申立も考えていた。
しかし、略式命令とはいえ、一応の起訴がなされたため検察審査会への申立は断念した。
検察審査会が扱うのはあくまでも不起訴処分だけだからだ。
検察審査会は昭和23年からある。
かつての制度では、検察審査会が「不起訴不当」(過半数の賛成)あるいは「起訴相当」(11人中8名の賛成)の議決をしても、検察は再捜査しこそすれ、検察審査会の意見には拘束されなかった。
参考意見として聞き置くに過ぎなかったのだ。
このため被害者が不当に遇されたまま涙をのんだ事件も少なくなかった。
こうした経過を踏まえて、検察審査会の議決に拘束力を与える法改正が平成16年になされ平成20年5月から実施された。
検察が不起訴にしても検察審査会で「起訴相当」の議決(11人の審査員の8名の賛成を要する)が二回なされれば、起訴が決定される仕組みだ。
この改正で、こと交通事故については、検察の処分は相当改善された。
昨年4月から9月に、検察審査会に不起訴性分の審査が申し立てられた交通事故案件の内4分の1は、審査会が議決する前に検察が自主的に起訴するようになった(2009年12月27日中日新聞)。
これまで警察や検察が人命に関わる交通事故の捜査を軽く扱ってきたことを表す数字と言ってよいだろう。
昨年4月から9月に、検察審査会に不起訴性分の審査が申し立てられた交通事故案件の内4分の1は、審査会が議決する前に検察が自主的に起訴するようになった(2009年12月27日中日新聞)。
これまで警察や検察が人命に関わる交通事故の捜査を軽く扱ってきたことを表す数字と言ってよいだろう。
僕は、さらに、本来正式裁判によるべき、すゞさんのような死亡事故が加害者のいい加減な言い分で略式命令にされるようなケースも検察審査会の審査の対象にしてはどうかとも思う。
この意味では、起訴権限を独占する検察官に対して、一般市民の感覚を反映して公訴権行使の適正を図るという今回の法改正の趣旨は生かされていると言えよう。
検察審査会の政治利用
しかし、検察審査会法改正によって予想外の事態が起こっていることも無視できない。
検察審査会への審査の申し立ては、被害者だけに限られない。
何ら利害関係がない第三者でも(告発を経て)審査の申し立ては可能だ。
世論を騒がせている小沢一郎の強制起訴は、事件とは何の関係もない市民が審査を申し立て、強制起訴議決がなされた。
この申立は当初、極端な排外主義を主張する民族主義団体の代表が自ら行ったと公表したが、実際は、保守主義者の団体であることを自認する「真実を求める会」の構成員からなされたもののようである。
彼らの狙いが民主党つぶしであったのであれば、まさに絶大な威力を発揮しているといわざるを得ない。
民主党政権は、今や、軍事面でも経済面でも益々アメリカに対する従属を強めている。
後退局面に入ったアメリカの国力と、台頭する中国という新たな世界情勢の中で、国民が舵取り託した民主党政権は、今や自民党政権時代以上にアメリカ従属一色となっている。
東アジア共同体構想も遠い昔語りであり、普天間基地海外移設も望むべくもない。
経済弱者のための経済政策も置き去りにされ、「平成の開国」など、アメリカ主導のグローバル市場原理主義へ前のめりになっている。
検察審査会の闇
検察審査会は一般市民からくじで選ばれた審査員11人が審査する。
検察審査員には、刑事記録を読む義務もなければ、どういう基準で起訴不起訴を決定するのかという基準すら示されていない。
今回の審査会は極めて短期間に起訴を議決した。
検察審査員には、刑事記録を読む義務もなければ、どういう基準で起訴不起訴を決定するのかという基準すら示されていない。
今回の審査会は極めて短期間に起訴を議決した。
起訴議決を受けて裁判所から検察官役に選任された3人の指定弁護士は、3800人に会員を擁する東京第2弁護士会から選任された精鋭だ。
その精鋭弁護士が検察から専用の部屋の提供を受け、検察事務官の協力を得ても、なお起訴にこぎ着けるのに何ヶ月もかかっている。
それほど複雑な事案を検察審査会は僅かな審議で決定してしまったのだ。
起訴議決では情緒的な判断が強く働いたことが窺われる。
しかも、どの程度内容のある審議がされたのかは、すべて検察審査会議の秘密の名によって闇の中にある。
くじ引きで選ばれた一握りの市民(11人)が、ろくに証拠も見ず、直感的な判断で、国政を大きく左右するような決定をするということは、検察審査会は全く予定していなかった。
一握りの市民が国政を大きく左右するなどということは、およそ民主主義原理にそぐわない。
しかも、民意の名の下に、このような事件が裁判所に持ち込まれるということは司法が政治に巻き込まれるということも意味する。
裁判になったからといって、テレビドラマのようにこれまでになかった決定的な証拠が突然、出てきて劇的に真実が明らかになるなどということはあり得ない。
検察の手持ちの証拠で有罪か無罪かを判断されるだけだ。
そしてこの件では本来のプロである検察は、有罪にするだけの証拠はないと判断している。
にも拘わらず、この種事件で、判断を迫られる裁判所は、小沢一郎はクロだという「民意」の圧力を受けるだろう。
無罪にすれば、世論の批判があり、有罪にしようとすれば、おそらくこれまでの有罪のハードルを下げなければならないに違いない。
司法はあくまで独立して法律と事実のみに拘束され自らの良心にしたがって中立的な立場で判断する。
司法は、場合によっては民意に反しても、基本的人権に関わる問題については少数者の権利を守らなければならない立場にある。
司法の独立の基盤を政治の論理が浸食しかねない現状は、司法の危機というべきだ。
今回の強制起訴問題は、司法の極端な政治利用として歴史に汚点を残すだろう。
近く、尖閣諸島の中国漁船の船長の起訴猶予(不起訴処分)がなされるという。
これについても、第三者による検察審査会の利用は可能だ。
くじ引きで選ばれた一握り(11人)の市民が一国の外交や命運すら左右するような決定をする可能性が現にあるのである。
検察審査会法の改正(強制起訴の導入)は、裁判員制度の導入や法テラスに関する法律等、他の重大な司法改革案件に紛れて、十分な審理もなく、行われてしまった。
被害者以外の利害関係のない第三者の申立による強制起訴の制度は直ちに廃止すべきだ。
この種の問題は本来、本道に戻って政治プロセスで解決されるべきだ。
そうでなければ、いたずらに司法の政治化を招くことになる。それは法原理機関としての司法の基盤を揺るがすことになるだろう。
(なお、僕は、小沢一郎を支持していない。彼はアフガニスタンに陸上自衛隊を派遣することを主張し、これまで、まがりなりにもなされてきた政府の憲法9条解釈を一挙に覆し、憲法9条の無効化を図ろうとしているからだ。しかし、それにしても、小沢一郎との対決は政治の課題であり、あるいは具体的な派兵が行われたときの司法審査の問題であって、今回のような陰謀的な司法の政治利用は残念でならない。)
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