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2011年5月16日 (月)

一票価値の単純平等が民主主義なのか?

島根原発から17kmの距離にある鳥取県知事が、SPEEDIの鳥取県県への配備を求めた。

福島で明らかになったような広域に拡散する放射能汚染の実態を踏まれば当然の要求である。

ここで気になるのが、投票価値の平等に関する最高裁判決である。

最高裁判決は1県1議席の仕組みも含む抜本的な見直しをして投票価値の差をできる限り縮小することを求めた。

真っ先にやり玉にあがるのが、鳥取県、ついで島根県である。

この両県には、人口に比べて極めて過大な議席(一人当たり5票分)が割り当てられており、これを是正するには、県単位の選挙区割りを考え直す必要があるというのである。

選挙区割りの変更を行えば、この両県からは一人の議員も選出されない可能性がある。

冒頭に述べたような鳥取県知事の声は国政には届かない仕組みになる可能性は否定できないのである。

僕は「ガリレオ裁判は正しかった?(10年12月6日)」以来、財界が主導している徹底した一人一票運動に疑問を感じるようになった。

こうした事態を想定すると、彼らが考えている民主主義とは、多数者に都合の良い少数者に対する支配を押し通すための手段なのではないか。

福島原発にしろ、普天間基地にしろ、多数者の快適さと安全のために、地方に犠牲を押しつける構造となっている。

そして、それが民主主義の名において正当化されている。

たかだか1%あまりのために90%が犠牲にされていると声高に叫ぶTPP参加も同様である。

一人一票を徹底すれば、こうした極端な多数者支配の構造はますます強化される。

民主主義は、単に多数者が少数者を支配するための手段なのか、民主主義原理の中に少数者の尊重を制度的に組み込んでいかなければ、民主主義は単に多数者の横暴を認める制度に成り果てるしかないのではないか。

それほど一票の価値が大切だというのならば、多数票を握る東京がまず、率先模範を示して、原発と基地を誘致してもらいたい。
多数者にそうした想像力があって、初めて民主主義が統治形態としての優越性を主張できるのではないのか。

嫌なこと、苦しみ、犠牲の全てを、遠い地方に押しつけて、自らの快適さを追及する民主主義は、市場原理主義と化した資本主義と同様に醜悪である。

そこには人の絆も、共助も共感すらも存在しない。

財界と最高裁が一体となった、一票の価値偏重のキャンペーンを見ると、彼らの一票格差の是正は、市場原理主義と重なって見えて仕方がないのである。

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