増えすぎた弁護士はどう淘汰されるか
弁護士の大量増員は、日本の弁護士の変質の先触れに過ぎないかもしれない。
このところ、その先にあるのが、米国弁護士の日本に対する全面進出だろうという兆候が多く見受けられる気がしてならない。
アメリカにとって、米国弁護士を日本に送り出したい動機はいくつもある。
それにしても、とりあえずは、弁護士増員である。
マスコミはこぞって、弁護士バッシングに忙しく、弁護士が増えることこそが市民のためになるとはやし立てる。
今の数では、弁護士が少なすぎて、身近ではない。
もっと増員して、身近な存在にして、使いやすくしなくてはならないと主張する。
果たして、本当にそうか。
以下は、アメリカのリーガル・サスペンスの雄スコット・トゥローの『囮弁護士』の中から、どうすれば、人々から選ばれる弁護士になることができるかについて、述べた件である。
『尊大な医者も、アパートメントや小さな平家住まいの、つましい暮らしをしている人間が大半を占める我々の依頼人も、みんなそろって、ある一つのことを知りたがる……こいつらは成功してるのか?裁判に勝てるのか?だから、ちゃんと目に見えるようにしておかなきゃならない。メルセデスに乗り、ゼニアを着て、金持ちと有名人大好きのリポーター、ロビン・リーチがいつはいってきてきもおかしくないようなオフィスを構えなきゃいけない。』(囮弁護士・文藝春秋)
今のところ、日本の弁護士の実感ははるかに遠い。
しかし、マスコミが望むように、弁護士資格も数ある資格の一つに過ぎず、弁護士資格は生計・仕事を保障しないということになれば、弁護士の均質性は大きく損なわれる。
結局、一般市民は、どの弁護士を選んだらいいのか、今以上に、わからなくなるだろう。
つまるところ、この小説がいうように、弁護士として立派に金を儲けている弁護士を選ぶのがリスクが少ないということになるだろう。
どうもそうした日が来るのが遠くないように思える。