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2013年1月22日 (火)

マチベンの寒中見舞い その5

【発行予定の書籍から】
ビル風害事件を問題にした裁判をテーマにした出版予定の本から、僕の目指す弁護士像を描いた部分を抜粋して紹介しよう。


N弁護士について


N弁護士とは、湾岸戦争(1991年~)の時に行われた市民平和訴訟の弁護団以来の付き合いだ。この訴訟は、イラクを攻撃する多国籍軍に対して日本政府が130億ドルに及ぶ戦費を支出をすることが、日本国憲法の平和主義及び憲法9条に反するとして、差止を求めた訴訟だ。


日本は戦費支出をしただけではなく、戦争終結後には、ペルシャ湾沿岸へ海上自衛隊の掃海艇を派遣した。このまま座視すれば、やがて自衛隊が戦争に駆り出されることになり、憲法の平和主義が蹂躙される時代が来る。この流れに歯止めをかけたい、非力でも何かしなければと声を上げた市民が集まった訴訟だった。訴訟が困難なことは最初からわかった話だった。


しかし、やむにやまれれず立ち上がった市民を見捨てることはできない。その後、N弁護士とは、PKO派兵差止訴訟、イラク派兵差止訴訟等の市民平和訴訟や日韓の戦後補償裁判である勤労挺身隊訴訟の弁護団をともにした。


N弁護士はこれらの訴訟の中心メンバーだった。N弁護士は、そこに不正義があると考えれば、どんなに困難な裁判でも立ち向かうことを信条にしている。風害という極めつけの困難な問題に立ち向かうこの事件で、そういうN弁護士から白羽の矢がたったのは、僕には光栄なことだった。


N弁護士は、不正義を見ると、断ることを知らない。不正義に立ち向かう事件のほとんどは、とても採算性が悪い。先に述べた一連の戦争と平和に関わる訴訟は、全部、持ち出しである。彼を一流の弁護士に育てたのはこうした事件の蓄積であるが、あまりに不正義が世の中に満ちると、彼が忙しくなり過ぎないか心配の種である。


事件が弁護士を育てる


僕に声がかかったのは、僕がマンション建設に反対する住民運動に数多く携わった実績が買われてのことと思う。とくに保育園の園庭が日影になり、子どもたちのお日様が奪われる事案での運動は、名古屋の弁護士では僕の独壇場だった。


子どもたちが育つ環境が奪われることを知った保護者の運動は、私心のないひたむきなものだった。園児の環境が奪われることに胸を痛める保母さん(現在の保育士)とも団結して、マンション建設反対のために、考えられる限りの知恵を絞った。裁判所は極端に過酷な日影被害しか被害者の訴えを認めてくれない。裁判に出しても敗けることがわかっていたので、どうしたら運動でマンション建築計画の変更を勝ち取ることができるか、そこに精力を集中した。


今では、考えにくいことだが、保護者は、深夜まで遊技室で保母さんと一緒に対策会議を繰り返した。保育園も保護者の熱意に押され、深夜までの園舎の使用を拒まなかった。部外者(僕やG建築士のことだ)の立入を禁止するなどという野暮なことは言わなかった、そういう時代だった。


僕は、運動に取り組む人たちのひたむきさに心を打たれた。弁護士という資格は、そうしたひたむきな人たちが集まる現場に飛び込むには格好の肩書きだった。法律家としてのアドバイスだけでなく、運動面でも一緒に知恵を絞って業者に対抗した。かれこれ10か園を超える保育園の日照運動に関わった。僕が、そこで学んだことは多い。


裁判所で争えば、敗訴することが明らかな例でも、運動は次々と成果を勝ち取った。多くの運動は建築計画が大幅に変更されるまで頑張った。計画の白紙撤回に至った例もあった、名古屋市が老人施設の用地として買収することで業者の損失も最低限に抑えられた例もあった。保護者の子どもを思う熱い気持ちは名古屋市も動かしたのだ。


僕が得た教訓は、単純な事実だった。正当な要求の下に、結束した、私心のないひたむきな運動は、必ず何らかの成果を挙げる。


諦めなければ、どんなときでも希望はある。

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