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2014年7月 2日 (水)

『敵』か『味方』か  峻別される日本国民

自衛隊イラク派兵差止訴訟(名古屋地裁)第1回口頭弁論における原告代表池住義憲氏の意見陳述から。


池住義憲氏は、日本における国際NGOの草分けの一人だ。
同氏は、ベトナム戦争終結時、南ベトナム、サイゴンから30㎞ほどにあるフー・バン難民臨時収容村で、戦火を逃れてくる難民の支援を行っていた。

同氏は、子どもたちを対象にしたデイケアセンター開設し、保育所のような活動をしていた。
人道支援を明らかにするYMCAの旗をセンターの前に掲げた。
同氏は、その活動をつぎのように述べている。


私は、ヴェトナム人スタッフとともに、子どもたちに歌やゲーム、ヴェトナムの絵本朗読、お絵描き、簡単な識字クラスなどを行いました。間もなく子どもたちは笑顔を取り戻します。生き生きとした子どもたちの笑顔は、私のすべての苦労を吹き飛ばしてくれました。戦争中であるのに、子どもたちは本当に素晴らしい笑顔を見せてくれました。私は行く先々で「チャオ・ミー」(『アメリカ人さんこんにちは』の意味。ヴェトナムの子どもたちは、外国人をみると皆こう呼びかける)と親しく声をかけてくれる子どもたちに囲まれました。


戦況が悪化し、撤退を余儀なくされた同氏は、サイゴン陥落の翌日(1975年5月1日)、難民村の様子が気にかかり、難民村を訪れる。
そこで体験したことを彼は次のように述べている。


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5.「赤ちゃんを殺したのは私だ・・・」

サイゴン解放の翌日(5月1日)朝、私はヴェトナム人スタッフのクゥワォンさんのバイクに乗ってフー・バンへ向かいました。何より私が関わった難民村の子どもたちが今どうなっているかが気がかりでしたから。その道すがら、燃えた戦車から脱出しようとして力尽きて死んでいる南ヴェトナムの兵士、民家に突っ込んだトラックの荷台に折り重なって死んでいる3人の兵士などを目の当たりにしたのでした。



 フー・バン難民村に着くやいなや、私はクゥワォンさんと二人でデイケア・センターの所まで以前と同じように歩いていきます。しかし、なにかが違う。空気、雰囲気、冷たいくらいの静けさ、人々の目線・・・。



以前であれば、私が難民村に足を踏み入れれば、多くの子どもたちが寄って来て「チャオ・ミー、チャオ・ミー」と笑顔で親しく話し掛けてきた。でもその日は、違う。はっきり違う。誰も寄って来ない。



 間もなく、デイケア・センターの場所に到着。人気(ひとけ)が感じられない。周囲を歩いて回る。すると、難民村にいた1人がクゥワォンさんになにやら報告している。
「ロケット弾が二発、打ち込まれた」とのこと。着弾した場所はいずれも、私たちが開設したデイケア・センターの敷地内だというのです。2万人いたこの広い難民村に対して二発、しかもそれがここだけに着弾。



 すぐにロケット弾が着弾した場所に行ってみました。すると、ヤシの葉っぱで作った部屋の仕切りに血が飛び散っている。跡がそのまま、残っていた。屋根には穴が空いている。赤ちゃんが、1人、死んだ、という・・・。



 誰も私に声をかけない。誰も私を責めることをしない。でも私にはすぐにわかった。
ロケット弾がここに着弾したのは、それは、私がデイケア・センターのシンボルとして広場の真中に高いポ-ルを建て、YMCAの旗を掲げたからです。解放軍は、フー・バン難民村の一角のここに通信の拠点があるか、または私のように「チャオ・ミー」と呼ばれる外国人が度々足を踏み入れていたから何かあると思ったのでしょう。私の善意とは関係なしに、解放軍にとっては、YMCAは結局米国「側」の組織、米国側に「加担」している団体に写っていたのです。



 背筋が凍りました。言葉が出ない。私は、周りにいるヴェトナム人の目を見ることができませんでした。
「赤ちゃんを殺したのは私だ」との自責の念が、私に強く襲い掛かってきました・・・。


(略)

2004年6月18日


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彼が人道支援のシンボルとして掲げたYMCAの旗は、北ベトナム軍にとって、「アメリカ」を意味し、「敵」を意味した。
その結果、赤ちゃんの命を奪うことにつながった。
同氏にとっては、それはあまりにも重い体験であった。


 私は、日本でNGOという言葉が一般に知られる以前から、もう30年以上にわたってNGO活動に携わってきました。しかし、今お話しましたヴェトナム、フー・バンでの経験は、今でも私の中で、整理することができない原体験となっています。私の背負った原罪のように私を苦しめています。29年間、この体験を語ることができませんでした。


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集団的自衛権行使容認には、長く国際人道支援活動に従事してきた民間NGOの多くから、活動を阻害するとして強く反対の声が上がっている。



駆けつけ警護による民間NGOの保護などという事例を上げられることは彼らにとっては、有害以外の何物でもない。
現地の人脈などで独自に彼らは、自らの活動の安全を図ってきた。
どの勢力にも偏らない、中立であることに対する現地の人々からの信頼こそが、その活動の基盤だ。


政府の集団的自衛権行使容認は、個人を全て「敵」か「味方」か峻別する。
日本国民であるというだけで、「敵」か「味方」かに分けられるのだ。


昨年アルジェリアで起きた日揮の日本人人質殺害事件は、すでにイスラム武装勢力にとって、日本人は「敵」と識別されていることを窺わせる。


集団的自衛権行使容認を掲げた2014年7月1日以降、私たちは、個人である前に、日本国民という集団的属性によって、明確に「敵」か「味方」かに峻別される歴史を生きることになる。



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