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2015年5月28日 (木)

日弁連の会務執行方針に対する兵庫県弁護士会武本夕香子氏による批判

長文になりますが、弁護士増員論の日弁連執行部と反執行部派の立ち位置の違いがよくわかると思いますので、推定的承諾のもと、転載させていただきます。
色づけは、マチベンによる。
青は日弁連会長のお言葉、赤は武本氏の意見で、マチベンが好みで色づけした。
文中、司法改革とは、弁護士の大増員を中核とし、法科大学院の創設や、司法修習の簡略化や貸し金修習制度の創設等の法曹養成制度を含む。

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週刊 法律新聞平成27(2015)年5月23日 第2094号

寄 稿 「日弁連の2015年会務執行方針に物申す」
武本 夕香子 弁護士(兵庫県弁護士会)

2015年の日弁連会務執行方針が日弁連のホームページで公表されています
   (マチベン注:末尾に同サイトの総論部分を貼り付けておきます)

 多くの人があまりの内容に驚いたことでしょう。
心ある人は、言わずとも分かっておられるでしょうが、私は、批判すべきは正面から批判することが会員の務めであり、3万6000名余りの日本弁護士会会員に対する理事としての誠意ある処し方であると考え、筆を執ることにしました。

 述べたいことは、たくさんありますが、「基本姿勢」の分に重点を置いて検討したいと思います。

第1 基本姿勢について

 まず、「基本姿勢」の導入部分は、「分け入っても分け入っても青い山(山頭火)」という、よく引用される名句で始まります。
謙虚な姿勢を示していると取れなくもありません。 

 ところが、次の段落「基本姿勢」の冒頭で「1万1676名もの会員の皆さんが投票用紙に「村越進」と記載してくださり、51弁護士会において最多得票を獲得させていただいたことの重みを、あらためてしっかりと受け止め」「山積する諸課題に全力で取り組む所存です。」と記載されています。 

 これは、村越会長の自慢と取られたり、「自分は最多得票数を取り、ほとんどの単位会で多くの票を獲得したのだから、自分のいうことに逆らうべからず」と取られたりしかねませんから、適切な表現ではなかったと思います。 

 この後者の解釈を、勘ぐり過ぎと言うことはできないでしょう。
 その後の「基本姿勢」も

「独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません。」 

「日弁連として、ぶれない一貫性、ころころと変わらない継続性、そして責任
感が必要です。」

「会員と弁護士会の心と力を一つに合わせる必要があります。」

「誰かのせいにして嘆いたり批判ばかりするのではなく、力を合わせて」
などという、「執行部に反対するな」とも取れる文言に終始しているからです

 山頭火の句を冒頭に掲げ、謙虚な姿勢を打ち出されるおつもりであれば、前回の会長選挙の時点では、現在の全会員3万6000人余りから2000人会員が少なかったとしても3万4000人強の会員がおられましたから、村越会長の名を投票用紙に書いたのが会員の三分の一に過ぎないこと、投票率が最も低かったこと(46・62%)を強調すべきだったでしょう。

1「1 幅広い市民の理解と信頼を得ることを基本とする」について 

 「基本姿勢」第1項において
「日弁連は、井戸やコップの中のような議論に基づく自分たちだけの「正義」を、声高に主張すればそれでよいというものではありません。すべての判断基準は、市民の利益にかないその理解と信頼を得ることができるか否かにあります。」
と記載されています。

 この部分の問題点は、意味が不明確で、全体として誹謗中傷と変わらないものになっている点です。

 何が「井戸やコップの中のような議論」で、何が正しい議論でしょうか。
何が、『自分たちだけの「正義」』で何が真正の正義でしょうか。
議論や正義に、正邪を区別しようというのは、それほど簡単なことではありません。
その判断基準として「市民の利益にかないその理解と信頼を得ることができるか否か」が挙げられていますが、あまりよく考えられた基準とは言えないと思います。
「利益」の意味によっては「市民の利益」にかなわない正義もありそうですし、市民の「理解と信頼を得る」ことができない正義など、たくさんあるからです。

 そもそも弁護士の使命は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現」すること
です。
弁護士法第1条にそう書いてあるのです。

従って、弁護士は、「正義」を声高に主張しなければなりません。
その弁護士の団体である日弁連が、「市民の理解と信頼を得ることができそうもない」と他人の顔色を見て「正義」を引っ込めるのでしょうか。
日弁連は、当面は理解が得られなくとも、それが「正義」であるなら弁護士の先頭に立って市民を説得すべきだと思います。

 司法は、立法や行政といった多数決支配から零れ落ちたマイノリティの人権を擁護するためのシステムです。
その意味で司法は、多数決支配から最も遠い存在であるべきなのです。仮に、司法が「市民からの理解と信頼を得られない」と言って「正義」を声高に叫ぶことをやめてしまえば、司法が司法としての機能を果たすことはできません。
多数派の声は、もともと立法や行政により反映され得ます。
三権分立により、司法には、多数派支配の立法・行政に対して抑止的効果を働かせることが期待されています。
にもかかわらず、司法までもが市民からの批判を恐れて多数派支配の結論に迎合的になってしまえば、司法が司法機関としての役割と三権分立の機能を果たせなくなってしまいます。

 司法というのは、社会正義と基本的人権の擁護のみを声高に主張し、その結果、多数派支配から孤高する存在となったとしても、また、いかなる批判に晒されたとしても、社会正義の実現と基本的人権を擁護するための最後の砦としての役目を果たさねばなりません。

 仮に、努力しても「正義」と「市民の理解」の二兎をどうしても追えない場合、司法制度の役割からして、弁護士会にとっては、「正義」を追求することの方が大事です。
つまらない右顧左眄は、日弁連と弁護士の存在意義をなくしてしまうでしょう。

 このように第1項は、正面から議論しても、全く納得のできない方針なのですが、さらに問題と思われるのは、誹謗中傷とも受け取れる内容を同項が含意することです。

 議論の中に、「井戸やコップの中のような議論」と、そうでない正しい議論の区別を持ち込む。正義に、『自分たちだけの「正義」』とそうでない本当の正義の区別を持ち込む。
そうした場合、誰がこの区別をするのでしょうか。
1万1676名もの票数を獲得した人であれば、その区別ができると言いたげな内容です。
こういう曖昧な区別は、恣意的に使用して相手を指弾できる点で便利ではありますが、非常に危険な考えと言わざるを得ません。
「井戸やコップの中のような議論」や『自分たちだけの「正義」』という誹謗中傷のレッテル貼りに利用できるからです。

 また、そもそも、「井戸やコップの中のような議論」、『自分たちだけの「正義」』などということを日弁連の会長が書くことは適切ではないと思います。
それでは、村越会長が、どこかに「井戸やコップの中のような議論」をする会員や『自分たちだけの「正義」』を声高に叫ぶ会員がいると考えていると受け取られても仕方ないからです。

 私は、皆さん正当な議論であるとの信念を持って発言され、市民のためを思って「正義」を訴えておられると思います。
村越会長もこの考えにご賛同いただきたいと考えます。
弁護士会の会長が、「井戸やコップの中のような議論」と書くことは、当然議論の抑制につながり、この方針の「おわりに」第1項で書かれている理事会における議論の充実の妨げになります。
また、日弁連の会長が、『自分たちだけの「正義」』を声高に主張すればよいというものではないと書けば、それは日弁連の行動を越えて全ての弁護士の「正義」の主張に抑制的に働きかねないと思います。

2「2 現実を踏まえて着実な改革を進める」について

 会務執行方針「基本姿勢」第2項では、
「日弁連は数多くのプレイヤーの1人に過ぎません。
日弁連の見解が常に正しいものとして受け入れられるわけではありません。
少数意見にとどまることの方がはるかに多いのです。
そうした中で日弁連の主張を最大限実現するためには、孤立を回避することが不
可欠であり、独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなり
ません。」

と記載されていますが、前述したとおり、この会務執行方針には賛同できません。

 また、
「日弁連は数多くのプレーヤーの1人に過ぎない」とのことですが、日弁連の発言力は大きいものがあります。
だからこそ司法改革により、弁護士自治と弁護士制度の弱体化があらゆる側面から画策されたのです。

日弁連の発言力が大きいからこそ、政府の審議会の委員に日弁連以外の委員をして多数を占めさせ、日弁連の発言を可能な限り封じようとしているのです。
日弁連の発言や行動に対し快く思っておらず、従って、日弁連の発言力を過小評価したい勢力が存在することは確かでしょう。
しかし、だからといって、日弁連自身が「常に正しいものとして受け入れられるわけではありません。」
などと卑屈になるべきではありません。

 また、日弁連の発言力が大きいか否かとは関係なく、日弁連は、「正義」に叶った日弁連の見解が正しいものとして受け入れられるように努力し続けるべきです。

 すでに論じたように、日弁連が主張する「正義」が、市民に受け入れられないことを理由に弁護士会が「正義」を叫ぶことを止めるわけにはいかないのです。
日弁連の見解が市民に受け入れられないからと言って間違った政策に一旦賛成してしまえば、なかなか反対の方向に舵を切ることができなくなってしまいます。
今の日弁連が過去の歴史にこだわり、司法改革を抜本的に是正することができなくなってしまっているようにです。

 弁護士会が弁護士としての社会的使命を果たすためには「独りよがりや原理主義と批判される」といった評価を恐れて弁護士が言うべきことを止めるのではなく、弁護士が「正義」と信じて主張している内容について「独りよがりや原理主義と批判」されないように市民の理解や信頼を獲得すべく、あるいは、誤解を正すべく努力し続けるのが本来あるべき姿なのではないでしょうか。

 第2項には、引き続いて
「司法と日弁連の歴史に思いをいたし、経緯と情勢そして現実を冷静に見極め、説得力のある最善の主張を展開することにより多くの人々の理解を得、力を合わせて改革を着実に前進させることが大切です。」
と記載されています。

 この部分にも賛同できません。
まず、「日弁連の歴史に思いをいたし、経緯と情勢そして現実を冷静に見極め」ていたのでは、過去の司法改革の失敗を上塗りすることになってしまうからです。
日弁連が司法改革を先頭に立って旗を振ってきた過去がある以上、日弁連の過去の歴史にとらわれていたのでは、抜本的な見直しなど実践できるはずがありません。
情勢と現実にとらわれていたのでは、日弁連が司法改悪を正すことに躊躇を覚えるだけで、とても見直しなどできません。

 弁護士会にとって重要なのは、監督官庁を持たない唯一の民間法律専門家集団として、基本的人権を擁護し、社会正義を実現する使命を負う法曹として、司法制度をあるべき姿にし、市民の利益や幸福を目指して発言し行動することです。
日弁連が他者から見てどのように見えるかとか、日弁連の過去の歴史などは、日弁連が行動を決める上では、最も劣後する価値基準なのです。

 もっとも村越会長は、この文章の結語に「力を合わせて(司法)改革を着実に前進させることが大切です」と記載しているのですから、この期に及んでも司法改革を進め、司法改革の見直しや是正など考えていないのかもしれません。

 つまり、第2項は、「司法と日弁連の歴史」や「経緯」があるし、多数派の顔色も見なければならないという「情勢」や「現実」もあるから、正しく議論して理論的・実証的に説得することはできないけれど、ともかく執行部の意見に賛成しろという意味にとられかねないと思います。
理論的・実証的に議論して勝てれば、歴史や経緯などは問題にならないからです。
このように受け取られる表現は避けるべきであったと思います。

 付言すれば、「司法と日弁連の歴史」や「経緯」などを斟酌するというのは、市民には全く関心の外であり、典型的な「井戸やコップの中のような議論」で『自分たちだけの「正義」』というべきものでしょう。

 更に、この部分にも、第1項と同じ含意として不適切な部分があります。
当然ですが、「独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません。」の部分です。
批判としては、前項と全く同じ議論になりますが、同じ間違いを何度もするというのはそれだけ問題が根深いということでしょうから、私も繰り返し批判したと思います。

 まず、「独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません。」が日弁連の行動原理として誤りであることは、既に述べたとおりです。
しかし、この部分は、村越会長が、「独りよがりな言動をする会員がいる」、「原理主義的な会員がいる」と考えていると取られるおそれがあります。
日弁連の会長が、このような発言をするのは不適切です。
会長がこのように考えるかもしれないと表明すれば、当然理事会の議論には抑制がかかるでしょう。

 そもそも、何らかの言動に対して、「独りよがり」だとか「原理主義的」だとかいうレッテル貼りをして、葬り去ろうというのは感心できません。
言動に対する評価は、あくまで論理性と実証性に照らして行うべきです。
それを「独りよがり」とか「原理主義的」とかいう、内容不明瞭な形容詞でレッテルを張るなど、あってはならないと思います。

 また、「排さなければなりません」という言い方も問題が多いでしょう。これほど、対話拒否、議論拒否の姿勢が明瞭な用語もありません。誰かが、「独りよがり」とか「原理主義的」とか判断すれば、「排される」のですから、会内民主主義の観点からして不適切な表現であると言わざるを得ません。

3 「3 日弁連と弁護士会の結束を大切にする」について

 第3項では、
「日弁連内には、様々な問題について異なる意見が存在します。」
「相違や対立を克服し、『会内論争に終始しばらばらで相手にされない日弁連』ではなく、『社会に向けて一致して発信し行動する力強い日弁連』を目指します。
日弁連としてぶれない一貫性、ころころと変わらない継続性、そして責任感が必要です。」
と記載されています。

 前段は、会内論争に終始しているわけにはいかない、会内の意見を一致させ、弁護士会が一丸となって発言し行動すべきとの主張で、それ自体は必ずしも間違っているわけではないと思います。
問題は、会内での議論が鋭く分かれる時、誰の意見を通し、誰の意見を譲歩させるべきかであると思います。

 この問いに対する村越会長の意見は、後段の「ぶれない一貫性、ころころと変わらない継続性」との記載に鮮明に表れています。
すなわち、村越会長は、司法改革を進めてきた日弁連が司法改革に対して立ち止まるべきではなく、従って、司法改革を進める人たちの意見を通すべきで、司法改革に反対する人たちの意見をこそ譲歩させるべきであるということが言いたいのでしょう。

 

 しかし、司法改革が始まってから15年が経ちます。その間、法曹志願者は激減し、法科大学院は学生募集停止校が相次いでいます。
弁護士の就職難は解消されるどころか悪くなる一方であり、弁護士の不祥事も多発し、増加傾向が見受けられます。
裁判所の新受事件数は、家事事件以外ほぼ右肩下がりで減少し続け、弁護士の登録抹消件数も増えており、弁護士登録してまもなく登録抹消する人の数も増えています。
弁護士の活動領域の拡大は遅々として進んでいません。
司法改革による社会的弊害は深刻になる一方です。

 

 このような現実を前にしてもなお、司法改革による社会的弊害に目をつぶり司法改革を進めると言うのは、市民の利益にならず、社会正義に反すると思います。

 にもかかわらず、司法改革を進めたのが日弁連だからといって日弁連としての「ぶれない一貫性、ころころと変わらない継続性」といった日弁連の体裁を取り繕うことに腐心するのは間違っています。
基本姿勢であるのに、同じことが何度も言われるので、私も同じことを繰り返します。
日弁連が「ぶれない一貫性」や「ころころと変わらない継続性」を誇ろうと、そんなことは市民の利益には無関係です。市民の関心の外です。
市民の目からは、典型的な「井戸やコップの中のような議論」で『自分たちだけの「正義」』というべきものでしょう。

 「責任感が必要です」とも書かれていますが、司法制度を担う法律専門家集団としての責任感は、体裁を取り繕うために「一貫性」や「継続性」を目指すのではなく、他者からどのように見られようとも司法改革による社会的弊害を是正すべく日弁連が立ち上がることで示されねばなりません。
その時が今なのです。
いや、今でさえ遅すぎると言えます。

4 「4 社会に向けた実践活動を」について

 第4項では、
「事態を一歩でも二歩でも前に進めたい、改善したいと本当に願うのであれば、社会の理解と支持獲得のための実践活動にこそ、日弁連と弁護士会の持てる全ての力を投入しなければなりません。
そのために、会員と弁護士会の心と力を一つに合わせる必要があります。」

と記載されています。

 この記載からは、自分たちは、「事態を一歩でも二歩でも前に進めたい、改善したいと本当に願う」が、自分とは異なる主張をする人たちは、「事態を一歩でも二歩でも前に進めたい、改善したい」とは望んでいないことが当然の前提とされているように読めます。
しかし、実際のところは、皆「事態を一歩でも二歩でも前に進めたい、改善したいと本当に願」っているのです。
だからこそ、引けないのです。
法曹のトップが、たとえ含意としてでも異なる意見の者を根拠なく「事態を前に進める気がない者」のように誹謗したととられかねない方針には、賛成できるものではありません。

 それに続く
「社会の理解と支持獲得のための実践活動にこそ、日弁連と弁護士会の持てる全ての力を投入しなければなりません。そのために、会員と弁護士会の心と力を一つに合わせる必要があります。」
の部分は、「会員と弁護士会の心と力を一つにして実践活動に全ての力を投入しなければならない」ということですので、「もう議論はするな、執行部の意見に賛成して実働だけしていればいいんだ」と読めます。
この基本姿勢で再三主張されてきた、つまりは、この基本姿勢の更に基本姿勢ともいうべき「議論の封殺」が、また主張されているようです。
「議論の封殺」を意図していると取れる文言が、こう頻出しては、それを曲解だとか、勘ぐりだとか、考え過ぎだとか言っても、それが説得力を持つことはないでしょう。
「理事会における議論の充実」を執行方針に掲げている村越会長の基本姿勢としては、不適切であると思います。

 また、最後の「会員と弁護士会の心と力を一つに合わせる必要があります」との部分ですが、総論的には正しいとしても、各論的には、司法改革を進める方向で「心と力を一つに合わせる」と言うのであれば、賛成できません。
これほどまでに司法改革の社会的弊害が出ているにもかかわらず、未だ司法改革を進めようとするのは、市民の利益には叶わないと考えるからです。

5 「5 司法と弁護士の未来を切り拓く」について

 表題は、前向きで明るいものになっています。

 しかし、第5項の内容は、
「司法の容量と役割を大きくすることを大命題とし、そのために、司法基盤の整備、司法アクセスの改善、活動領域の拡大、国際活動の強化、法曹養成制度改革」
(中略)「弁護士自治の強化に、一体のものとして総力で取り組みます。
下を向いてうなだれるのではなく、誰かのせいにして嘆いたり批判ばかりするのではなく、力を合わせて、私たちの手で司法と弁護士の未来を切り拓きましょう。」

と記載されています。

 前段は、司法制度改革審議会の意見書の焼き直しで、ここでも司法改革を進めることがあらためて確認されています。
しかし、司法改革を進めてきた結果、弁護士自治は弱体化させられています。
司法改革を進めつつ「弁護士自治の強化」を図ることは極めて困難であることが既に実証されています。

 

 また、市民の利益を第一に考えるのであれば、「司法の容量と役割」は小さく済むようにする方が良いというのは、私が年来主張してきたことです。無用に事件が多い社会、不必要な裁判が多い社会が、市民の利益にならないのは当然でしょう。
それだけではなく、必要性がないのに、どの場面でも弁護士が出てくる社会も、市民の利益にはなりません。
本来は、市民が司法にかかわる必要がなく、安心して暮らせる社会を目指すべきです。

この議論の詳細を説明することはしませんが、第1項に記載されている「市民の利益」は、私には非常に難しい概念に思われます。

 後段の「下を向いてうなだれるのではなく、誰かのせいにして嘆いたり批判ばかりするのではなく」との部分も、特定の第三者に対する誹謗中傷のように受け取られます。

 また、司法改革により弁護士の未来が失われ、活動領域の拡大は見込めず、就職先はなく、弁護士の経済的基盤が失われ、法曹志願者が激減し続けている現実を前にして、司法改革を進めながら、いかにして「司法と弁護士の未来を切り拓」いていけるというのでしょうか。
第5項は、表題と中身が合致していません。

第2 各論について

 各論については、「司法試験合格者の1500名への減員」の政策の取り扱われ方について指摘させていただきます。

 法曹人口問題は、司法制度、弁護士制度の根幹をなす政策です。

 法曹人口を何名とするかにより、その後の司法制度や弁護士制度のあり方が決まると言っても過言ではないでしょう。
法曹人口の数により法曹養成制度のあり方も異なってきます。

 

 ところが、この会務執行方針の各論では、法曹人口問題は法曹養成制度改革の中の1項目としてしか扱われていません。
前述したとおり、法曹人口問題の方が、むしろ法曹養成制度を包摂する関係に立つにもかかわらずです。
法曹養成制度改革の中に司法試験合格者数の政策が含まれるとの包摂関係には、一定の意図が含まれていると受け取られかねません。
なぜなら、司法試験合格者数が法曹養成制度改革の中で扱われる時、司法試験合格者数は、法科大学院存続のために何名が望ましいかとの文脈で語られることが多いからです。

 ちなみに、各項目の表題を並べると、いかに司法試験合格者数、法曹人口問題が極小化して扱われているかがわかります。

 会務執行方針は、
「第1 身近で使いやすい司法の実現」
「1 司法基盤の整備」
「2 司法アクセスの改善」
「3 広報活動の強化」とし、
「第2 活動領域の拡大」
「1 高齢者・障がい者のある人などへの支援及び福祉分野」
「2中小企業支援」
「3 海外展開の推進」
「4 行政連携の強化」
「5 組織内弁護士の採用拡大」
「6 隣接士業問題への的確な対応」とし、
「第3 法曹養成制度改革」
「1 法科大学院の改革」
「2 司法試験の改革」
「3 司法試験合格者の1500名への減員」
「4 司法修習の充実」といった具合に項目立てされています。

 この項目立てを一覧するだけでも2015年の日弁連の会務執行方針が司法改革による弊害を無視して司法改革を進める方向であるかがよくわかります。

 今日弁連に必要なことは、平成12年11月1日、日弁連臨時総会でいわゆる3000人決議が可決されて以降、この15年間、司法改革を進めてきた結果、司法と弁護士の未来が失われてきた結果を真摯に受け止めることです。
そして、法曹としての責任感を持ち、司法改革による社会的弊害を取り除くべく努力をし続けることだと思います。
司法改革を進めても社会的弊害が増大するばかりであること、日弁連が司法改革の抜本的な是正を始める以外に司法と弁護士の未来を切り拓く道はないことは既に実証されているのですから。

 論語で孔子も言っているではないですか。

 「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」

 一刻の猶予もありません。

 明日からでも、否、今日からでも180度舵を逆の方向に切り、日弁連が一丸となり司法と弁護士の未来を切り拓いていくべき時が来ています。

 「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」

 日弁連の会務執行方針を改めるに憚る必要はないと思います。

  以上

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日弁連サイトから

基本姿勢
「分け入っても分け入っても青い山」(山頭火)
会長に就任して2年目に入りました。2015年度は、私の任期の後半戦になります。

1万1676名もの会員の皆さんが投票用紙に「村越進」と記載してくださり、51弁護士会において最多得票を獲得させていただいたことの重みを、あらためてしっかりと受け止め、「社会と会員の期待に応える実現力のある日弁連を築く」という初心を忘れることなく、13名の新副会長と力を合わせ、山積する諸課題に全力で取り組む所存です。よろしくお願い申し上げます。

 

2015年度会務執行に臨む基本的な考え方は、以下のとおりです。

 

1 幅広い市民の理解と信頼を得ることを基本とする
日弁連のすべての活動そして弁護士自治は、幅広い市民の理解と信頼に支えられていることを、常に肝に銘じなければなりません。日弁連は、井戸やコップの中のような議論に基づく自分たちだけの「正義」を、声高に主張すればそれで良いというものではありません。すべての判断基準は、市民の利益に叶いその理解と信頼を得ることができるか否かにあります。

 

2 現実を踏まえ着実な改革を進める
社会には、異なる立場、異なる見解のプレイヤーがたくさんいることは当然であり、日弁連は数多くのプレイヤーの1人に過ぎません。日弁連の見解が常に正しいものとして受け入れられるわけではありません。少数意見にとどまることの方がはるかに多いのです。そうした中で日弁連の主張を最大限実現するためには、孤立を回避することが不可欠であり、独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません。

司法と日弁連の歴史に思いをいたし、経緯と情勢そして現実を冷静に見極め、説得力のある最善の主張を展開することにより多くの人々の理解を得、力を合わせて改革を着実に前進させることが大切です。

 

3 日弁連と弁護士会の結束を大切にする
日弁連内には、様々な問題について異なる意見が存在します。可能な限り情報と認識の共有化を図りながら、全弁護士会の代表者で構成される理事会を中核として丁寧な会内議論を行い、会内合意の形成を追求します。相違や対立を克服し、「会内論争に終始しばらばらで相手にされない日弁連」ではなく、「社会に向けて一致して発信し行動する力強い日弁連」を目指します。日弁連として、ぶれない一貫性、ころころと変わらない継続性、そして責任感が必要です。

 

4 社会に向けた実践活動を
事態を一歩でも二歩でも前に進めたい、改善したいと本当に願うのであれば、社会の理解と支持獲得のための実践活動にこそ、日弁連と弁護士会の持てるすべての力を投入しなければなりません。そのために、会員と弁護士会の心と力を一つに合わせる必要があります。

 

5 司法と弁護士の未来を切り拓く
司法の容量と役割を大きくすることを大命題とし、そのために、司法基盤の整備、司法アクセスの改善、活動領域の拡大、国際活動の強化、法曹養成制度改革、若手会員の支援、人権擁護活動、東日本大震災・福島第一原子力発電所事故の被災者・被害者支援、民事・刑事の司法改革、弁護士自治の強化に、一体のものとして総力で取り組みます。下を向いてうなだれるのではなく、誰かのせいにして嘆いたり批判ばかりするのではなく、力を合わせて、私たちの手で司法と弁護士の未来を切り拓きましょう。

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