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カテゴリー「裁判員制度反対」の12件の記事

2012年8月12日 (日)

アスペルガー障害者に対する隔離・収容判決 今日の中日新聞

何かとこの世は、「よいしょ」をしておくと過ごしやすいこともある。


今回は、中日新聞8月12日付から「中日新聞を読んで」に「よいしょ」する。


アスペルガー症候群の被告による殺人事件で、求刑16年を上回る懲役20年の判決が下された事件(大阪地方裁判所平成24年7月30日判決)に関する中日新聞の社説に関する論評である。


この事件については、大阪弁護士会による会長談話が出され、続いて日弁連の会長談話も出されている。

日弁連の会長談話から判決文を引用する。

いかに精神障害の影響があるとはいえ、十分な反省のないまま被告人が社会に復帰すれば・・・被告人が本件と同様の犯行に及ぶことが心配される」こと及び 「社会内で被告人のアスペルガー症候群という精神障害に対応できる受け皿が何ら用意されていないし、その見込みもない」ことを理由として、「被告人に対し ては、許される限り長期間刑務所に収容することで内省を深めさせる必要があり、そうすることが、社会秩序の維持にも資する」として、有期懲役刑の上限にあ たる量刑を行った。(8月10日付日弁連会長談話から。「」は判決文の引用

会長声明や一般紙の伝え方は、障害者に対する無理解と排除の考え方を批判し、合わせて、この判決の考え方は犯罪を犯す可能性があることを理由に予め拘禁する予防拘禁であり、現実に犯された犯罪に対する処罰を決める刑事裁判の本質に反すると批判するものであろう。


「中日新聞を読んで」は、さらに一歩踏み込んでいる。
まず、裁判員制度の仕組みから、今回の判決が、裁判員だけによる多数決ではなく、少なくとも裁判官の内一人は、アスペルガー障害者が将来、犯すかも知れない犯罪を予防するために隔離・拘禁する必要があると判断したという事実を鋭く突いている。

刑務所の実態や刑罰の根拠を知らない市民がこうした見解を持つことは、まだ理解できないではない(賛成はできないが)。しかし、知識を備えた裁判官がこの見解に賛成したということは、恐ろしいことである。市民が裁判に関わるのは今回限りだが、この裁判官は今後も刑事裁判に関わり続けるからである。

さらに、筆者は、この判決は決して他人事ではないと鋭く警鐘を鳴らしている。

ナチスの強制収容所に入れられたのはユダヤ人ばかりでなく、常習的犯罪者や障がい者もいたと聞く。社会防衛の名の下に、犯した罪と無関係に市民を隔離することが許されるという恐ろしい社会が来ようとしている。

常、オオカミ少年を演じる、マチベンも脱帽である。
確かにおっしゃるとおりである。
この判決を一般市民の問題だととらえ、「恐ろしい『隔離』判決」とする筆者の卓越した見解に感服する。


社会秩序の維持に資するために重罰を与えようとする思想は、反社会的勢力を排除しようとする風潮と結びつくとき、恐ろしい収容所社会を生み出すだろう。
反社会的勢力には、エセ社会運動家ゴロやこれに準ずる者も含まれるとする解釈が一般的なようである。
エセ運動家か本物の運動家かを誰がどうやって決めるのか、さっぱりわからない。

建築紛争に関わることが多く、市役所に抗議に行くことが多かったマチベンは、「特定市民」(一般市民とは区別されるクレーマー市民だから、要警戒ということのようだ)に分類されていたこともある。
「特定市民」は、「エセ運動家ゴロ」とどう異なるのか。
誰かが、「エセゴロ」と認めれば、市民運動をしている人は、「反社会的勢力」になるので、社会秩序維持のために隔離収容できるという発想がこの判決の根底にはある。
「中日新聞を読んで」の提起に答え、さらに反転させて、一般市民の多くが、そのように考えているということに、マチベンは「排除社会」の別の恐ろしさを感じる。
裁判員裁判の本質的な狙いが、案外、国民を権力行使に参加させ、市民感覚による「社会秩序の維持」を実現することにあったのかもしれないと、今さらながら、つくづく思う。


折しも、原子力利用の目的に「我が国安全保障」が加えられた。一方で、軍事情報へのアクセスを厳しく取り締まる秘密保全法が用意されている。
秘密保全法が成立すれば、原子力の利用に関わる事柄は軍事情報に当たるから、原発事故の真相を知ろうとする活動は犯罪になる。
反省の情がなく、犯罪を繰り返し犯すおそれがあれば、問答無用で収容所送りとなる。
かくして原発帝国は完成を見る。


今日のブログは「よいしょ」を目的としている。
卓越した見解を披露したのは、愛知県弁護士会のG弁護士である。
「よいしょ」をしておくと、世の中は何かしら、役に立つこともあるのではないかと勝手に想像しているのである。

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2011年5月23日 (月)

国民置き去りの裁判員制度改革議論

裁判員制度施行3年目に入った5月21日、中日新聞は、最高裁が2月に行った裁判員制度に対する国民意識調査結果を「裁判員参加イヤ 増加」との見出しで報じた。

2年間にわたり、裁判員制度に異を唱えるマスメディアは全くない中で、なお、8割を超える国民が裁判員に参加したくないと主張し続けている。

メディアによる世論操作に弱い常の調査と比べると、国民は裁判員制度にはっきりとノーを突きつけ続けている。

今回は、「あまり参加したくない」42.6%に、「義務でも参加したくない」41.4%が肉薄しているのが特徴的だ。

義務の遵守において他国には引けをとらない国民性を持つ日本人が、「義務でも参加したくない」と明確な意思表示をするのは、よくよくのことと考えねばなるまい。

それなのに、なぜ、参加したくないのかという設問を最高裁は設けていないらしい。

また、メディアなどの議論も、圧倒的な国民が、なぜ、それほどまでに参加したくないのか、掘り下げようとはしない。

不思議なことに、民意を反映するのが使命の政党ですら裁判員制度に反対する政党は相変わらず、皆無である。

これほど国民の声が無視されるのも極めて珍しい。

メディアも政党も、論じているのは、廃止ではなく、改善である。
対象から覚せい剤事案や性犯罪を外す、等々である。
日弁連の議論は、多分、

  • 裁判員の仕事から量刑を外し、
  • 有罪・無罪を争う事案であって被告人が望んだ場合に限り、
  • 無罪判決が出た場合は、検察官控訴を認めない

という裁判員を限りなく陪審員制度に近づける案であろうが、これが通る見込があるなら、初めから、現在のような得体の知れない鵺のごとき裁判員制度など最初からあり得なかった。

原発事故に限らず、この国では、官僚、政府、業界、マスコミのコングロマリットができあがっていて(分野によってはアメリカが入る)、都合がわるいことは一切、議論にならないようにできているとしか思えない。

裁判員の場合は、ここに政党まで加わってしまっているのが致命的である。

国民の声を無視する圧倒的な仕組みができあがっているのだ。

せっかく最高裁が比較的公正で客観的な調査結果を発表しているのに、そこに現れた国民の声を適確な見出しで報じているのは、またも中日新聞だけらしい。

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2010年12月11日 (土)

仙台地裁の裁判員裁判で死刑判決の少年被告人、控訴に同意

「来栖宥子★午後のアダージォ」様のブログで、仙台地裁で死刑判決を受け、控訴しないとしていた少年が弁護人らの説得で、控訴に同意したことを知りました。(12月6日控訴)

           (最近は、新聞は、スポーツ・論壇面以外、あまり読みません)

本当によかったと思います。

裁判員裁判で死刑判決の少年被告人、控訴に同意

来栖さんの

 よかった。死刑判決は間違っている。時間をかけねばならない。人は変わるものだ。少年被告人に、既にその兆しが見えている。問題は、この社会が、我々が、彼らを如何に受け入れてゆけるかということだ。人は、不信の中、たった一人では更生できない。更生の鍵は彼にではなく、この社会に、我々のほうに、あ る。

とのご意見に全面的に賛成である。

少年には発達可能性と変化可能性がある(可塑性)。
少年の可能性を信頼したが故に、少年法は保護を原則とし、刑事罰についても不定期刑を置くなど、少年に対する教育的な配慮を優先している。

わずか5日の審理で更生可能性なしと断定として、少年を殺すことにした裁判はおかしい。裁判員裁判だからおかしいだけでなく、未成熟な子どもの将来の可能性を想像することすらなく、信頼できないと切って捨てた精神の貧しさにおいて断じておかしい。
すぐに理解できない異物には、排除で対応するという反射的な反応が蔓延している社会の貧しさがおかしい。

控訴審では、是非、少年法の精神と、子どもの可能性に対する十分な信頼に基づいた適正な裁判がなされることを強く希望する。

こと少年事件については、裁判員裁判の量刑を慮る必要は全くないと断言してよい。裁判員には少年事件に不可欠な少年の発達心理に関する専門知識がない上、裁判員裁判であるが故に専門的知見を排除してなされた結果は、参考にすらすべきではない。

将来、変わりうる少年を一人殺すかどうかなのだ。

ここは、是非とも、意地でも、裁判官の良心(憲法76条3項)を見せてほしい。

ちなみに、ここしばらく、表面化していないが、成年年齢を18歳にする議論は当然、少年法も射程に入れている。むしろ成年年齢を18歳にしようとする主張は、少年法を本丸にしているともいえる。成年年齢が満18歳に改正されれれば、18歳には少年法は適用されない。少年の将来の発達・変化の可能性に対する信頼は考慮する必要なく、18歳は、すでにできあがった人格として、成人と同じ基準で裁かれることになる

来栖宥子さんのHPには、以前、トラックバックを張ろうとしたところ、「不正なURLです」とはじかれたことがあり、わざわざ、記事をまるまる引用していただいたことがあり、お世話になりました。併せて感謝いたします。

ちなみに、なぜか、僕のURLは、gooblogを初めとするいくつかのプロバイダでは、「不正」の烙印を押されて、トラックバックが貼れなくなっています。

私のプロバイダであるniftyに善処を求めていますが、今のところ、自分で相手先プロバイダに聞いて対処するように言われるので、そのたびに、全くの素人である一ユーザーに対応させるのではなく、niftyが対応するのが本来の責任のあり方ではないのかと言っては、押し返すという繰り返しです。

11月半ば過ぎ頃から、以前はトラックバックが貼れたブログに、急にトラックバックが貼れなくなりました。

何でですかね。


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2010年11月29日 (月)

裁判員裁判と遺族感情

裁判員裁判で死刑判決が続いた。

被害者の遺族の感情を重く見る傾向があると言われ、あるいは遺族感情に配慮すべきだとも言われる。

論理的には、遺族のいない被害者は軽く見られることになる。
また、遺族が何らかの信念で、極刑を望まないと言えば、死刑にはならないことになる。

自分自身のこととして、僕は少なくともこれだけは言える。
僕が何かの拍子に犯罪に巻き込まれて殺害されても、子どもたちには、犯人の死刑を望まないでほしい。
それは新たな殺人を望むことに他ならないから。
僕は、たとえ自分が殺されたとしても、犯人を殺したいとは思わないから。
人を殺さないということは、だれに対しても一番大事な徳目だと考えるから。
子どもたちよ、僕は、あなたたちをそう考えるように育ててきたと信じるから。

自分の子どもが殺されたとき、僕は、死刑を望まないか。
想像することもできない。
むつかしい問題だ。

しかし、望まないでいたい。
子どもたちは、きっと犯人を殺すことを望まないであろうから。
僕が、自分を殺した犯人を殺したくないと考えるのと同じように、子どもたちも自分を殺した犯人を殺したいとは思わないだろうから。

 

今でも印象に残っている手記がある。

オウム真理教による坂本弁護士一家殺害事件に関して、坂本弁護士の妻都子さんのお父さん大山友之さんの書いた著書(「都子聞こえますか-オウム坂本一家殺害事件・父親の手記」)の一節だ。坂本弁護士一家殺害事件の犯人たちに死刑判決が出た後の父親の気持ちが、そのまま綴られている。

手元にないので、正確性を欠くが、次のようだった。

法廷に通い詰めた大山さんは、死刑判決が出てほっとした心境とともに、果たして本当に都子さんは死刑判決を望んだろうかと自問自答する。障害児のボランティアに関わり、弱い人を助ける職業へと歩もうとしていた都子さんを思い描く。そして、命を何より慈しんでいた都子さんは、犯人の死刑など望まなかったのではないかと思い当たる。ひたすら犯人の死刑を望んだ自身と、都子さんの優しい人柄の間で割り切れない葛藤を抱いたまま大山さんは裁判所を後にする。

被害者遺族の感情は、それぞれだろう。

そして、死刑判決を望まないとしても、それは決して、家族を愛していなかったからではないこと、愛するが故に、死刑を望まない遺族もいるに違いないことを知っておいてほしい。

仮にそうであるならば、ことさらに遺族の被害感情を重視する量刑のあり方は、公平を欠くことにならないだろうか。裁判員裁判が過度に遺族の被害感情を重視する傾向があるのだとしたら、僕はこの点にも疑問を留保したい。

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2010年11月28日 (日)

裁判員裁判で少年に対する死刑判決

26日、仙台地裁で少年に対する死刑判決が出された。

中日新聞の記事が事件を多角的によく分析していた。
過去20年余りで死刑求刑された少年は7人、そのうち2人殺害で死刑求刑されたのは3人。2人は無期懲役、唯一死刑判決を受けたのが光市母子殺害事件の被告で現在上告中だという。

だから、この事件は、光市母子殺害事件に続く2例目の2人殺害の少年の死刑判決ということになる。死刑に軽重がない以上、光市母子殺害事件と同等に凶悪で更生可能性なしと評価されたのだ。

「更生可否スピード審理」とする見出しは、事案の本質を突いているだろう。
仙台地裁は、「犯罪性行は根深い。他人の痛みや苦しみに対する共感が全く欠けている」とし、「更生可能性は著しく低い」と断定した。
たった5日の審理で、更生の可否について、踏み込んだ審理ができるだろうかと、冒頭の記事は疑問を投げかける。
少年事件では家庭裁判所の調査官を中心として、少年の成育歴について詳細な記録が作られている。

ところが、今回の裁判では、成育歴は証拠請求されず、鑑別結果報告書の一部が朗読されただけという。

家庭裁判所調査官の成育歴は極めて重要な証拠だ。発達心理の専門知識を持つ調査官が丹念に調査した結果の中には、事件を解く鍵が含まれている場合もある。
これが証拠請求されなかったのは、裁判員のために、審理の時間を制約しようとする裁判所のせいだろう。

僕は修習生時代に、刑事裁判修習中に少年の殺人未遂事件に当たったことがある。
後続車両から降りてきて少年の車を叩いた男に対して、少年が、やにわに車内のナイフで、斬りつけたという事件だった。

調査官は、少年が沖縄の離島出身であることに着目していた。少年が、本土に渡った後、沖縄差別を繰り返し体験したこと、その中で、周囲に対して過剰な警戒心と恐怖感を抱きながら生きてきた経過に着目していた。そして可能なら、少年の育った島を訪ねて島独特の風土で育った少年の成育歴をさらに調査したいと記載していた。

凶悪というより、本土における差別の中で植え付けられた恐怖心がナイフを振り回すという突発的な行為として発現したという見方だ。
凶悪・凶暴とは違う恐怖心のなせる発作的な犯行という見方だった。

裁判官から意見を求められた僕は、更生可能性を強く主張して、刑事事件ではなく、家庭裁判所へ送致して、少年事件として扱うべきだと強く主張し続けた。

裁判官は懐が深かったと思う。僕は不満足だったが、刑期を軽くするという形で、僕の意見をくみ入れてくれた(余談ながら、このときの国選弁護人は、殺意を否定する少年に対して、無理矢理殺意を認めさせるという尋問をしており、腹立たしかった。少年の弁護人は、修習生として直接、裁判官に意見を述べる機会があった僕だけだったと言っていい)。

話が横にそれた。
調査官の作る成育歴にはそれほどの重みがあるということだ。
読み込むのは大変だろうが、読み込むことができれば、素人ならではの発見と共感もあったかもしれない。

少年の更生可能性を表面的にしかとらえる時間がなかったのは返す返すも残念というほかない。そして、それが裁判員裁判であるがゆえに避けられないことだとすれば、やはり裁判員制度には根本的欠陥があるというべきだ。

是非、少年には控訴してもらいたい。
控訴審で十分な審理時間を確保してもらいたい。

中日新聞は、検察幹部が「弁護側が控訴したら高裁はどう判断するか。裁判員裁判の結果であっても判決の見直しがあるかもしれない」と語ったと伝えている。
検察から見ても、死刑判決は、重すぎるのではないかということだ。

中日新聞は、さらに少年に対する厳罰化を求める市民感情が背景にあることを指摘する。
厳罰化が不必要なことは、以下のグラフを示すだけで十分だろう。
少年の凶悪事件は、圧倒的に減っているのだ。

Satujin

        出典「少年犯罪データーベース

減っていることを示すだけでは、少年に対する厳罰化を求める世論にはひょっとして不十分なのかもしれない。
激減して極めて異例になっただけに、この異例の者は社会には到底理解できない。

理解できないものを排除し尽くしたいという衝動が社会にはあるのかも知れない。
異端を排除しようとする神経症的な空気が社会に蔓延している。

危ない社会だと思う。

少年が控訴して、減刑されることを切に願う。

 

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2009年5月25日 (月)

良心的裁判員拒否者について 各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その6

NHKは5月14日、午後4時頃配信のニュースで、裁判員候補者168人に対してなしたアンケート結果(回答者121人)によれば、「絶対参加したくない」とする人が16%いると伝えた。
一般的な世論調査ではなく、最高裁から具体的に候補者に選ばれ、「呼び出しがあれば、国民の義務として応じなさい」とのお達しを受けた上で、なお、16%の人が「絶対参加したくない」としている各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その2)。

自分が裁判員をやりたいかどうかを考えることも司法のあり方を考える上では大切だ。
しかし、それだけでなく現実に裁判員の指名を受けても、人を裁くことには「絶対に参加したくない」とする人がいるのだということについて考えることも大切だ。この問題は人権の本質に関係しているからだ。憲法が人権を保障しているのは、多数決でも奪ってはならない人間の人格の基本に関わる根源的な価値を保護しようとするところにある。
先のNHKの裁判員候補者アンケート結果では「どちらかと言えば参加したくない」という人が42%に上っている。本音は参加したくないという人の合計は58%と過半数を占める。だが、逆にいえば、裁判員に選ばれてしまったのだから仕方がないと思って、しぶしぶ従う人を含めれば、8割の人が結果として裁判員に参加することになる。
このときに「絶対に参加したくない」16%の人を、多数の人が我慢しているのに自分だけ「国民の義務」に反して身勝手なことを言うわがままな奴だと非難するなら、これは、人権という考え方を全く理解していないことになる

(なお、同日、午前にNHKが伝えた、一般の世論調査では本音は参加したくない派の合計は75%、「絶対に参加したくない」は27%だ。具体的に指名された人に対するアンケートでは、これが16%に減少している。一般論として聞かれれば「絶対に参加したくない」と考えていた人が、候補者に選ばれてしまった以上、国民の義務としてやむなく受け容れたという人が相当数いることが想像される。候補者に選ばれた後でも、それでもなお、絶対に参加したくないという人は、相当な覚悟を持って裁判員を拒否する人だと考えるのが相当だろう)。

国会は多数決で政治的に意思決定をする機関だ。裁判所は、たとえ、たった一人を除く国民の全員がよしとすることでも、憲法に違反することや人権を侵害することは許さないことを使命にしている。
「絶対に参加したくない」人の理由が、その人の世界観に関わっているのであれば、それは本来、思想・良心の自由として守られなければならない。いわば良心的裁判員拒否だ。裁判所は、本来、こうした少数者の基本的な人格に関わる権利の最後の守り手でなければならない。

具体的な裁判員候補者が、なお「絶対に参加したくない」と拒むとき、裁判員制度の矛盾が露骨に表れる。少数者の権利である人権の守り手である裁判所が自ら、少数者の権利を侵害しかねない。
この背理をどう考えるのか。
裁判官は、自らの裁判官としての「良心」に照らして、どのように対応するのか。

「すべて裁判官はその良心にしたがい、独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)。
この場合、憲法上、最も問題になる規定は思想・良心の自由を定める19条だ。この自由は絶対的に保障されるとするのが憲法学の定説である。
法律は裁判員法ということになる。この両者の間に少なくとも葛藤が存在することは裁判員制度推進派といえども認めざるを得ないだろう。

「絶対に参加したくない」として裁判員への参加を拒否する人の権利を擁護するのか、あるいは蹂躙してしまうのか。
自らの思想・良心の証として裁判員への参加を拒む人を前に、その人の思想・良心の自由を保障すれば、自らその人を過料の制裁付で引っ張ってきた自分の立場が崩れる。
逆に無理強いすれば、人権擁護の最後の守り手としての自らの立場を放棄することになる。
自縄自縛とはこうしたことを言う。
この一点を考えるだけでも、今回の裁判員制度は、根本的な矛盾を抱えたまま、出発しようとしている言っていいだろう。

ことが、アメリカの陪審制のように国民による権力監視・権力制限に徹底した制度であれば、これほどの葛藤は生じないと思う。
しかし、現在の裁判員法では、この葛藤を無視することは許されない。

2009年5月23日 (土)

裁判官、どうしてだめなんですか?

裁判員制度は、市民の日常感覚を裁判に活かす制度だと、何度も説明されてきた。

この際、市民の日常感覚に問いたいことがある。
裁判は、今でも録音禁止である。
裁判所敷地内での撮影も基本的に一切禁止である。
だからいつも、判決のニュースは、お決まりのシーンしかない。あのシーンは具体的な裁判が始まる前の2分間(だったと思う)に限って、裁判所がテレビメディアの代表に対してだけ、法廷内の撮影を許可するという慣行にしたがっている。生の裁判のやりとりが決して、テレビで目に触れないのは、裁判所が撮影禁止を徹底しているからだ(昭和40年代頃まではそうではなかったと先輩弁護士は言うが、僕が弁護士になってからは、生の裁判シーンは決してテレビで見ることはできない)。
裁判に関係なくても、裁判所の敷地の中で撮影することは禁止である。カメラは裁判所の敷地の中に入ってはいけないのである。テレビの当事者の入廷シーンがお決まりなのもそのせいである。テレビメディアとしては、工夫の仕様がないのである。
テレビだけではない、むろん一般の市民も敷地に一歩でも入ったら、何も撮影してはいけない。

真剣に裁判に取り組もうとする裁判員の中には、きっと証言を一言も聞き漏らすまいとして、ヴォイスレコーダーに録音しようとする方もいるだろう。しかし、録音しているのがばれると、裁判官からきついお叱りがある筈だ。「裁判官、どうしてだめなんですか?」皆さんには是非、裁判官を問いつめてほしい。市民の日常感覚を満足させるような回答は決してできないはずだからだ。

まず、裁判官は、「裁判所で責任をもって録音をしているから裁判員の方が録音する必要はありません」とでも答えるだろう。しかし、まじめな裁判員は、「私は自宅に帰ってから今日の証言をもう一度、正確にまとめて明日の裁判に臨みたいので録音しているのです」と答えてみよう。これに対して裁判官はきっと、「ダメなものはダメ」という程度の答えしかしようがないと僕は見る。「法廷での印象で判断してもらえばいいんですよ」などでも答えようものなら、裁判員裁判は情緒に流れた大雑把なものでよろしいと自白しているようなものだ

合議の内容については、守秘義務が課されているが、録音しようとしたら、ろくに理由もないのに叱られたということは、守秘義務の範疇ではない。理由もなく叱られたとどんどんマスコミに訴えてほしい。「市民に開かれた裁判所」になるにはそれくらいの洗礼を受けることをこの際、最高裁も覚悟すべきだ。

各党は裁判員制度廃止を公約せよ! その3」でも書いたが、僕は基本的に裁判所が好きだし、裁判官を基本的には信頼している。
しかし、この録音禁止(特に刑事事件において)と、厳格な撮影禁止は、納得していない

市民の日常感覚を大切にするというなら、まずは、録音禁止、撮影禁止の理由を市民の日常感覚で理解できるようにわかりやすく説明する義務が裁判所にはあるだろう。
また、裁判員制度を肯定的に考える方は、敷地に一歩でも入ったら、撮影禁止というこの厳格な扱いが市民の日常感覚から見て理解できるか裁判所に問いただしてみてほしい。それこそが、まさに市民の感覚を裁判所に入れ、裁判所を変えていくことにつながることではないだろうか。

追伸
いっとき、「裁判員制度」(だったと思う。とにかく裁判員制度を宣伝する文句だった。撮影できないので、確言ができない)と大文字で書いたジャケットを裁判所の職員の方が、一斉に着せられていたことがあった。裁判所は、ステッカーや、ワッペン、腕章などは、基本的に敷地内持ち込み禁止である。

(イラク戦争開戦当時だったか、自衛隊のイラク派遣直前頃だったかに、「イラク戦争反対」のバッジだったかワッペンを付けて果敢に東京地裁の建物に入った弁護士が(法廷の中では自発的に自分で外したと聞いた)、裁判所の警備の方に執拗につけ回されたという話を聞いたこともあった。トランシーバーを使って、「対象は現在、X階をY方へ移動中」などという大捕物になったと聞いた記憶だ)。

「裁判員制度」ジャケット運動は、裁判所が自分で禁止したことを自分でやっていたことになる。さすがに、これは、自己矛盾だということに、裁判所は気づいたようだ。この滑稽な一斉ジャケット運動は、ほんの一時のことで終わった。

2009年5月22日 (金)

各党は、裁判員制度廃止を公約せよ! その5

保坂展人議員のブログに5月21日に国会内で開かれた裁判員制度を見直す議員連盟の総会の模様が記録されている。
見直せ、裁判員制度、各議員の発言の内容は豊かで、議員の率直な自己批判も含め、興味深く、また共感するところが多い。

良心的な議員の先生方には、是非、最終的に裁判員法廃止に向けて頑張っていただきたい。
個人の公約でも、きっと得票は増えると思う。
選挙も、頑張ってくださ~い!!

それにしても、こうした良心的な議員の信頼まで裏切った法曹三者の罪は重い。

2009年5月21日 (木)

各党は、裁判員制度廃止を公約せよ! その4

クマのプーさんのブログ が伝えるところでは、「裁判員法の廃止を求める会」 は昨5月20日、「国会は、すみやかに、裁判員法の施行を停止する旨の法律を制定し、裁判員法の施行を停止して、同法を再検討せよ。」との声明を発表した。

先般のNHKの世論調査及び裁判員候補者アンケートの結果を踏まえれば、国民の声を反映した至極まっとうな主張である。その主張は、まさに民主的と言ってもよいだろう。

声明で同会の構成を見ると、代表は小田村四郎氏、代表代行は大久保太郎氏となっている。僕の知ったメンバーは理事も含めて誰もいない。代表の小田村四郎氏は元拓殖大学総長ということであるから、僕とはおよそ思想傾向が違いそうだ。
同会のHPには裁判員制度に反対する理由が2回に分けて掲載されている(「裁判員制度を廃止しよう」  「裁判員法を廃止しよう」)。求めによりこの記事を執筆したとされる「国民新聞」はトップページの見出しを見るだけでも一見明白に右翼である。見出し項目だけで、僕とは、傾向的に悉く対立しそうである。

しかし、裁判員制度は、右から見ても左から見てもあかんのである。右から見るといいが、左から見るとあかんものもあるが、裁判員制度はそうではない

先の引用記事が、右派に向かって、

たしかに物事には、あの人たちが賛成するなら、反対するなら、こちらは反対だ、賛成だ、ということで片付けていいものもある。しかし、左右の立場は違うが共に反対、賛成というものもある。裁判員制度はそのよい例である。

と呼びかけているところには拍手~!である。
その前の段落にはこうある。

高山俊吉氏は、元青年法律家協会の議長である。つまり左翼だ。これをもって裁判員制度は左翼が反対しているから、国のためには良い制度ではないか、という人がいる。ではNHK受信料不払いはどうか。中村燦元独協大教授が取り組んでいるが、共産党もやっていたではないか。部落解放同盟と一番戦っているのは共産党ではないか。鳥取県で人権擁護条例ができたとき、これに正面から反対したのは鳥取弁護士会だがこの会長は共産党である。

冒頭にある高山俊吉氏は僕が弁護士を志す原点を与えてくれた弁護士の一人である。
彼が情熱を傾けて事件に臨む姿勢が「楽しそうにみえた」から、僕も現場や巷に張り付いた弁護士になりたいと思った。弁護士稼業が実は大変な仕事であるなんてことは、弁護士になってから初めて知ることになる。と言って、僕は、後悔したことはない。上手に乗せてくれたものだと高山氏の手腕に感心するばかりである。

でもって、もちろん高山氏が呼びかけ人の中心となった「裁判員制度はいらない!大運動」も裁判員法施行を迎えた本5月21日、裁判員制度実施に抗議する声明を発表した。こちらの呼びかけ人は、直接の面識はなくとも、よく名前を知った人が多い。僕が親近感を覚えるのは、こちらのグループである(国民新聞が目の敵にする人も多く含まれているだろう)。
今日のブログをクマのプーさんのブログからの引用で始めたのも、クマのプーさんが天木直人ファンを自称しているからでもある。天木直人さんは、イラク戦争開戦時にイラク戦争反対を表明したがゆえに、退職に追い込まれた元レバノン大使である。僕も関わったイラク派兵差止訴訟の中心的な原告の一人でもあった。官僚組織の中にありながら、公然と政府の政策を批判するという気骨、勇気、信念と覚悟において、どれほど尊敬しても尊敬しすぎることはない天木氏を退職に追い込んだ当時の外務官僚トップは竹内行夫氏だ。名古屋高等裁判所が自衛隊イラク訴訟で違憲判決を出した後まもなく、なぜか当の竹内行夫氏が最高裁裁判官に任命された。このことは、またいずれ書く機会があるだろう)。

もう一度、繰り返す。
裁判員制度は右から見たら良いが、左から見たら悪い、あるいは、右から見たら悪いが、左から見たら良いなんぞという制度では断じてない。
違憲の疑いが濃厚だというのが、右派、左派共通の見解なのである。
僕も左右それぞれの主張とは多少ずれたところがあるかもしれないが、憲法原則と関わる部分で制度的な問題があると思っている。

しかも、どの世論調査も、裁判員制度反対が圧倒的な民意であることを示しているのである。正義も理もある。しかも、制度廃止を公約すれば、圧倒的な民意の支持も得られるのだ。したがって、政党にとっては、利もある。これほど恰好の公約テーマはないと断言してもよい。

お願いだから、各党よ、裁判員制度廃止を公約してくださ~い!!

追伸
あらかじめ断っておくけれども、僕には、違憲訴訟を担うような体力も気力もない。最高裁が主導したものを裁判所に提訴して違憲性を争うなどということは、裁判所に自分で自分を裁けと迫るに等しく、およそ不可能に近いほど困難であることは目に見えている。僕は日弁連の不甲斐ない一会員であって、それ以上でも以下でもないのである。国会で廃止すれば、すぐに消えてなくなる訳なので、議員の先生方にお願いしているのです。m(__)m
頭を下げろと言われれば、何度でも下げますから、議員の先生方、裁判員法を廃止してくださいませ。
m(__)m m(__)m もひとつオマケに  m(__)m

2009年5月19日 (火)

各政党は、裁判員制度に反対せよ! その3

【番外編】 期待はずれですみませんm(__)m

現在の裁判員制度には憲法の基本原理からも問題があるなどと大見得を切っておきながら、海賊やピースボートの話にそれた。
裁判員制度は悪い。
それははっきりしているが、本題に入る前に当該の業界人ならではの実感を一言。

この2年ほど(もっと長かったかもしれない)、名古屋の裁判所は文字通り上へ下への大騒ぎ状態だった。ことは裁判員制度導入に伴う物理的な話である。

弁護士になって以来、20年あまり、民事第○部は何階のフロア、民事第△部は何階のフロアというのが定位置であった。
総じて民事部は6階と7階(刑事は確か4階と5階だった。民事には特殊事件専門の部について多少の例外があった)、高等裁判所は10階と決まっていた。だから事件を扱う部が何部かさえわかっていれば、行くべき場所は決まっていた。

これが、この2年ほど、めまぐるしく動いたのである。定刻に間に合うように出かけても(マチベンの場合、ほぼ40分前に事務所を出る)、あるべき場所に該当の部がなく、あわてて走り回り、挙げ句はこれまで決してあり得なかった場所に該当の部が突然、出現したりと、大変だったのである。
部の移動が一度であればともかく、2度も3度も起きたのである。

裁判所に直接確認した訳ではないが、ほぼ全ては、裁判員制度導入のための法廷作りや、裁判員制度導入に伴う部屋作りのためである。2年ないしそれ以上の期間、ずっと裁判所は工事が続いていた。裁判所の北側駐車場には、工事用の区画が設けられて一般車の進入ができなくなり、工事用の事務所が建っていた。

裁判員制度を導入するためには、裁判員裁判用の法廷を作ることはむろん、裁判員を選任するための質問の部屋や、裁判員や候補者の待機室や、合議をする部屋を作らなければならない。

しかし、工事中だからといって、裁判所を閉める訳にはいかない。日常の裁判をこなしながら、大改装が進められたのである。

弁護士が大変な思いをしたのであるから、工事の進行の度に、膨大な事件記録を抱えて引っ越しをしなければならない裁判所職員はもっと大変な思いをしたろう。引っ越しに伴って裁判記録が紛失したなどということは万が一にもあってはならない。精神的にも相当、負担だったのではないかと想像する。きっと裁判官も裁判の内容について夢中で考えながら、いつもの部屋に入ったら、全然違うメンバーがいて、「こりゃまた、どうも失礼しました。それにしても、俺の部屋どこに行ったんだったっけ」なんてこともあったのではないかと勝手に想像してしまうくらい、本当に大変だったのである。

さて、裁判制度実施を目前にして、ようやく各部が収まるべき位置に収まった。

と同時にあれまぁ、気がついたら、これまでの裁判所のイメージとはがらっと変わって、親切な案内掲示板が各所に掲示されているではないか。これがまた、淡いピンクと黄緑を基調とした、なかなかに落ち着いた快いデザインである(少なくとも裁判員制度宣伝用のゆるキャラよりよほどよい)。

名古屋の裁判所は、法廷棟と事務棟に分かれていながら、これが少なくとも外観上は一体の建物になっていて、かつ、法廷棟と事務棟で天井の高さが違うという複雑な作りである(法廷棟は11階建て、事務棟は13階建てなのに同じ高さの一つのビルに収まっている)。このため天井が高い法廷棟では、たとえば3階がない。4階から階段を下りると突然2階になるというミラクルな建物である。この構造が一目でわかるようなカラフルな(但し、品位を損なわない)看板が作られたのである。

また、階段に沿って、車椅子を上下させる昇降機が付けられたり(これまでここは車椅子の人にとっては、数人の助けがないと通行不能だった)、何やらトイレも改装されていたりと、ずいぶんと変わった。市民の目線というスローガンが裁判所の箱物にはとりあえず生かされたようである。こんな一面が、市民に開かれようとする裁判所の善意を感じさせたりする。

しかし、相変わらず、録音禁止、裁判所敷地内の撮影禁止である。裁判員になった人は、裁判所の敷地内で思わず携帯電話で写真を撮りたくなろうし(一生の記念になるもんね)、尋問を忘れないようにと、ヴォイスレコーダーに録音しようとしたりするだろう。是非、そうしてみてほしい。そして、裁判官に叱られてみてほしい。そして「どうしていけないんですか」と食い下がってほしい、何と言っても裁判員制度は市民の目線で裁判所を洗い直そうというのが第1原理だから、裁判官は懇切丁寧に撮影や録音が禁止されている理由を市民にわかるように十分に説明しなければならない義務がある。はてさて、市民が納得する答えを裁判所がするであろうか。

ま、撮影や録音が解禁されて、裁判所が市民にわかりやすい役所になったあたりで、裁判員制度廃止となるのが、ごく一般的に突き放した見方をすれば、一番よいのかもしれない。

ただ、その間に「絶対に参加したくない」という裁判員候補者が裁判員を強制される精神的物理的苦痛は取り返しがつかないかもしれない。雑ぱくな裁判で有罪や死刑にされたりした被告人の人権も取り返しがつかないかもしれない。実験台にされた身はたまらないから、今回の話は極めて不謹慎なのかもしれぬ。

僕は、裁判所は役所の中では、比較的、親切な方だと思っている。多少間違えた書面を出しても、書記官の方が、ここをこう直してくださいと、やさしく教えてくれる。食いついても、ちゃんと理由を教えてくれる。また、一昔前と違って、本人訴訟だからといって、やたら冷たくする裁判官もずいぶん減った。だから、僕は基本的には、裁判所は嫌いではないし、裁判官の良心をたいていの場合は、信じている。

と、横道ばかりにそれて、本日はおしまいなのである。各党に対して、裁判員制度に反対せよ、と言う割には、不甲斐ないのである。それは日弁連が裁判員制度推進の方針で固まっているので、なかなか憲法論に踏み込む勇気がないのである。

別に目に見える不利益があるという訳ではない。空気が何となく言い出しにくいのである。こういえば、わかってもらえる人にはわかってもらえるかもしれない。北朝鮮が4月5日に打ち上げた飛翔体を「ミサイル」と呼ばず、「人工衛星」と言うと、そのとたんに、周囲の風当たりが強くなる、あるいは風当たりが強くなるように想像してしまう、だから、先端部の形状から人工衛星である可能性が高いとか思ったとしても、とりあえず、「ミサイル」と言って自分を裏切って差し障りなくごまかしておきましょうとか。そんな気分が、気弱な日弁連会員の中にはあったりするのである。決して、裁判員制度推進が日弁連会員の総意でもないし、おそらく多分、多数でもないのだけれど、とにかく空気が言い出しにくいので、二の足を踏んだ今回であった。

以上、番外編、おしまい。

追伸

なお、北朝鮮が4月5日に打ち上げた飛翔体を「ミサイル」と断定した国や国会(但し、共産党は未確認を理由に反対。社民党は棄権)は、日本以外にはないのではないか。

ミサイルと断定するためには先端に爆発物が搭載されていることが確認されなければならない。今回の飛翔体の打ち上げが北朝鮮によるミサイル能力の誇示、ないしミサイル開発計画の一環であることは事実であろうが、国際社会では今回打ち上げられた飛翔体は人工衛星、せいぜいがロケットということでコンセンサスがあるようにみえる。